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夕学レポート

2008年03月24日

わかりにくい安政時代 『海舟がみた幕末・明治』(第二回)

夕学プレミアム『海舟がみた幕末・明治』は21日(金)に第2回が行われました。
きょうのテーマは、「安政の大獄」です。
NHK放送文化賞の授賞式から駆けつけた半藤一利さん。
「きょうは、幕末で一番面白くない時代の話をします」と前置きしながら、いつものべらんめい調で講義が始まりました。
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幕府は予期していたはずにも関わらず、なんら対策を打っていなかったペリーの来航。
2度目の来航があった安政元年(1854年)の三月に日米和親条約が結ばれ、日本は新しい時代に船出することを余儀なくされました。
先延ばし戦術を取りながらも、なんとか混乱をさばいてみせた老中 阿部正弘は心労がたたって退任。幕府・諸藩・公家の混乱はピークに達します。
安政の年号は1859年まで約6年間続きますが、この時代は、「幕末で最も面白くない時代」(半藤先生談)とのこと。
言い換えれば、最もわかりにくい時代ということでもあります。
幕末・明治史は、「攘夷」か「開国」か、「討幕」か「佐幕」か、「富国強兵」か「征韓」かというように、明解に対立軸が語られる二元論に魅力があります。
それに対して、この6年間は、対立軸が複雑に錯綜しているところが「わかりにくさ」の理由です。


まず、日米和親条約に則って米国総領事ハリスが下田に来日。ペリー顔負けの強圧的な態度で、通商を求めてきました。
この態度に「攘夷」か「開国」か、という外交政策における対立軸は深刻度合いを増していきます。勢力で言えば、圧倒的に攘夷派優勢という図式です。
ところが、将軍後継問題という新たな対立軸が、これに加わります。放映中の大河ドラマ『篤姫』で、堺雅人が怪演しているように、時の将軍家定(篤姫の夫となる人物)は、生来の愚鈍かつ癇癪持ちで、変革期の舵取りを担う器ではありませんでした。世継ぎを誰にするかを巡って、「一橋(慶喜)派」か「紀州(慶福)派」という対立が沸き起こりました。
「一橋派」と「慶福派」双方に「攘夷論者」と「開国論者」がおり、複雑です。
一橋慶喜を推すのは、攘夷派の急先鋒で慶喜出身の水戸や福井(松平)などの有力藩と、開国派の幕閣達。
紀州慶福を推すのは、うるさ型の水戸を嫌う有力諸藩と幕閣達。
更には、これに久方ぶりに政争に参画できる機会に、野心を隠さない公家達
攘夷派の理論的支柱として全国に影響力を持った国学者達
が加わり、公家に対する両派の買収工作も繰り広げられて、京都は一躍焦点の場所になりました。
日本の将来を決める問題と、直近の政治権力を巡る争い、更には金銭という生臭い欲が絡み合って、収拾が付かない状態は、なにやら現在の道路暫定税率の問題を想起させます。
この混乱を腕力で制圧したのが、井伊直弼でした。
井伊は、老中 掘田正睦が公家の多数派工作のために京都で悪戦苦闘中に、密かに将軍家定を手中に収め、大老の座を掴みます。
就任するやいなや、継嗣を紀州慶福で決定してしまいます。
更には、日米修好通商条約を無勅許で調印し、一気に事を進めていきます。
大老就任からわずか二ヶ月間ほどの、電光石火の早業でした。
この力業に対して、水戸を筆頭とする攘夷派や一橋派は大激怒し、「井伊を斬るべし」といきり立ちます。
時を同じくして、将軍家定が死去し、慶福が14代将軍に就任。一橋派が頼みとした島津斉彬も亡くなり、反井伊派が怯むすきに、井伊直弼は、反対派の大弾圧を行うことで、事態の収束を図ろうとします。
これが「安政の大獄」です。
処罰された者はおよそ70名以上。水戸の首領 徳川斉昭は永蟄居、一橋慶喜も隠居謹慎とされました。
死罪には、多くの国学者や、橋本左内、吉田松陰等の開国論者も含まれていました。
「井伊許すまじ」という怨嗟の声は、頂点に達し、年号が安政から万延へと改まった冬(1860年)に、井伊直弼は水戸と薩摩の浪士の襲撃を受けて斬殺されます。
これが「桜田門外の変」です。
さて、こんな混乱の中、我らが勝隣太郎(海舟)は、ひたすら洋式戦艦の勉強に励んでいました。
安政2年(1855年)に自らの提案が実り、長崎伝習所を開設。オランダ人から洋船を譲り受け、海軍の実地訓練を始めることになります。
わずか4年間の短い期間ながらも、後の日本海軍の創設に繋がる画期的な取り組みでありました。
さて、次回は、「桜田門外の変」後の混迷と咸臨丸の船出がテーマです。

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