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夕学レポート

2008年04月04日

「玉」をめぐる暗闘 「海舟がみた幕末・明治」第三回

安政2年(1855年)、勝麟太郎の提案によって開校された長崎伝習所は、攘夷論の激化、財政逼迫等の理由により、安政6年(1859)年には閉鎖となりました。わずか4年の短い運命でした。
半藤さんは、わずか4年ながら、長崎伝習所が果たした功績は大きかったと言います。
近代兵学を修めたこの伝習所が、のちの日本海軍の黎明となったことはよく知られたところですが、それ以上に、各藩から集まった青年達にいくつかの意識変革を促した点で大きな意義があったと半藤さんは考えています。
1.藩を超えた日本という国家を意識させ、「世界の中の日本」という視点を自覚させたこと
2.西洋兵学の修養を通して、西洋の合理的思考に対する認識を深めたこと
3.人材登用への機運を盛り上げ、封建的身分制度の限界を認識させたこと。

軍艦操縦や大砲射撃という科学技術の粋を学んだことで、国家観、近代合理主義、民主的思想といった近代国家の礎となる知識と態度を96人の若者たちに植え付けたことが、後の世に対する大きな貢献となったわけです。教頭として彼らをまとめた勝海舟の果たした役割もまた、大きいものでした。


日米修好通商条約が締結され、その批准のために使節団の派遣が決まった際、勝は、米国軍艦に同乗するのではなく、日本人による、日本の船で渡米することに意義を説いて回りました。
その成果は、咸臨丸の派遣として結実します。
勝は艦長に任命されますが、身分のせいで待遇はごく軽いものにとどまりました。
勝を抜擢はしたものの、幕閣の意識は、まだ旧態たるままでした。
咸臨丸には、操縦補佐として何人かのアメリカ人が同船しましたが、勝はここでも、「日本人だけ」に強くこだわったと言います。
咸臨丸の航海が、名実ともに「日本人初」の快挙になることへの執着だったとのこと。
後世に発揮される彼の眼力の鋭さを感じさせる逸話と言えるでしょう。
さて、咸臨丸の米国航海は、わずか5ヶ月程の短いものでしたが、その前後に日本は、混迷の度をますます深めていました。
腕力で時代を動かした井伊直弼が凶刃に倒れて以降、幕閣には、もはや舵取るが出来る人材はいませんでした。
開国後の世情は不安が募り、物価高もあいまって、人々の不満は頂点に達していきます。
黒船来航以来の幕府の混乱は、250年間続いてきた徳川による統治構造が崩壊しつつあることを明らかにすることになりました。
その風を受けて、幕府という重石に頭を抑えつけられてきた外様大名や、封建制に虐げられてきた下級武士、豪農・豪商に間には、抑圧されたエネルギーがマグマのように熱を持ち、爆発する時と場所を求めて蠢動をはじめました。
その受け皿となったのが、尊王攘夷運動でした。
不満の鬱屈が充満していたところに、外国嫌いの孝明天皇が攘夷を唱えたことで、火がつき、時代の潮流になっていったと半藤さんは見ています。
庄内の清河八郎、京都の田中河内介、久留米の真木和泉らの下級武士、神官などが、「行動するアジテーター」として全国を駆け回り、民衆を扇動していきました。
この難局を幕府は、公武合体策で乗り切ろうと図ります。
将軍家茂の御台所に孝明天皇の妹、和宮を迎えようという画策です。
幕府の発想は、朝廷との関係を深め、尊皇派を牽制しようという融和策でしたが、朝廷側には、岩倉具視をはじめとする狡猾な策士も登場し、この案に乗る見返りに、外国との条約を破棄させ、幕府に攘夷を確約させようという謀略に動きます。
また、この動きに、密貿易により経済力を蓄えてきた二つの雄藩がからみ情勢を更に、混乱させていきます。
ひとつは長州藩です。
長州は、長井雅楽が策定した『航海遠略策』により藩論を統一し、朝廷や幕府への働きかけを強めます。
これは、積極的に外国と交易をし、軍備と国力を充実さえようという進歩的な開国論でした。
この案は、なぜか孝明天皇を感服させ、幕閣も賛成し、国論となる勢いを得ます。
しかし、攘夷にこだわる「行動するアジテーター」や長州内部の攘夷派、薩摩の西郷らが連合し、アメと鞭の両方で朝廷への巻き返しを図ります。
老中安藤信正の襲撃(坂下門の変)もあって、長州の開国策は頓挫、時勢は転換していきます。
変わって勢いを得たのは、もうひとつの雄藩薩摩です。
藩主の島津久光も、本音は開国論でしたが、藩内の攘夷派を巧みに懐柔し、千人の兵を率いて京に登り、京都の攘夷派の諸般有志・浪士を抑圧します。寺田屋事件では、藩内の攘夷派を力づくで抑え込み、朝廷に対してその腕力を誇示します。
薩摩の開国論は、徳川慶喜や松平春獄ら、かつての一橋派を政治の表舞台に戻し、自らの影響力を強めることを意図したものでした。
日和見主義の朝廷は、今度は薩摩の意見に従い、幕府に勅旨を遣わします。
久光の大軍に守られて江戸に入った勅旨の大原重徳は、談判のすえ、幕政改革と称して、慶喜、春獄の復権を認めさせることに成功しました。
久光が江戸で力を誇示している頃、京都では長州の逆襲が始まりました。
長州は、開国論、公武合体論から百八十度転換し、攘夷鎖国論を提唱します。しかも政局を握るために、最も過激な立場を取るようになりました。
燻っていた激越な尊皇攘夷派は、長州という後ろ盾を得て、勢力を盛り返し、京都はたちどころに攘夷一色に衣替えをしてしまいました。
意気揚々と江戸から引き上げてきた島津久光は、わずか数ヶ月のうちに、京都での形勢が逆転されたことに驚きながら、薩摩に引き上げていきます。
実は、帰京の途上で起こした生麦事件が、大騒動になっていたことを、知っていたのかもしれません。
桜田門外の変から、わずか二年余りの短い間ですが、朝廷という「玉」をめぐる、薩摩と長州による権力闘争は激烈を極め、開国と攘夷の間を二転三転しながら、抗争を繰り広げていきました。
動乱はテロを誘発し、開国派、攘夷派双方で多くの人間が凶刃に倒れます。
その影には、テロを巧みに利用しながら、勢力拡大をはかる長州、薩摩両藩の暗躍もあったようです。
また、その軋轢の余波は、はからずも幕府の勢力を弱めることに繋がり、時代はいよいよ、幕府の終焉を感じさせる時期に入ってきました。

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