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夕学レポート

2008年04月11日

追い詰められる幕府 「海舟がみた幕末・明治」第四回

文久2年(1862年)7月、薩摩の働きかけによって、幕府の政権は、一橋慶喜(将軍後見職)と松平春獄(政治総裁職)の二人に委ねられました。
慶喜、春獄コンビは、すぐに大胆な政治改革に着手します。
朝廷と大名に対しては、強調路線を狙う融和策。幕府内に対しては、積極的な人材登用が、その柱でした。
朝廷に対しては、それまで幕府が任命していた京都御所の九つの御門の警備に、朝廷の意向を聞くことや、皇室御陵の改修に費用を出すことを承諾します。
諸藩に向けては、隔年だった参勤交代を三年に一度に改め、江戸に留め置いた大名妻子の帰国を認めるなど、家光依頼の締め付け策を緩めていきます。
幕府内では、開国論者であった、大久保忠寛、勝麟太郎を大抜擢します。
矢継ぎ早で改革策を打ち出した二人でしたが、大きな勇み足もありました。
国事犯の全面的赦免を決定し、桜田門外の変、坂下門外の変などの襲撃犯までをも名誉回復をしてしまったことでした。
半藤さんは、この決定が「政治的なテロ行為も、いつかは赦免されるという認識を攘夷派に広める結果となり、天誅という名の暗殺行為を誘発する一因になった」と考えています。


さて、同年9月30日、また勅旨を迎えるに先立って開かれた幕閣総集合の大会議は、後の幕府崩壊を予見させる二つの出来事があったと、半藤さんは言います。
ひとつは、慶喜が見せた土壇場での惰弱さでした。
春獄と慶喜は、事前に、朝廷や諸藩の圧力を受け流すために、時間稼ぎ的攘夷論を取ることを決めていたとのこと。
ところが、会議の席上で、慶喜は、突如「攘夷不同意」を言明し、春獄と対立をしてしまいます。 戊辰戦争での敵前逃亡を想起させる逸話ではあります。
いまひとつは、「大政奉還」という案が、はじめて出されたことでした。
勝を世に出すきっかけを作ってくれた大久保忠寛が直言したというこの案は、当然ながら勝麟太郎の考えでもありました。
ただし、これが実行に移されるまで、もうしばらくの時間がかかることになります。
その年の暮れに、幕府の攘夷決行を促す勅旨がやってきました。
26歳の三条実美と24歳の姉小路公知の二人です。
二人の勅旨は、若さに任せて、傲慢に攘夷決行を迫ります。
幕府は、これに対して、攘夷の約束と実行プランは、追って将軍が上京の折に言上する旨の返答をして、時間を稼ぎます。
一方で、世情不安の激しい京都の治安維持のために、京都守護職を定め、会津の松平容保を送り込みます。
慶喜は、12月に上京し、将軍家茂も、翌年(文久3年1863年)2月には京都に上ります。
将軍が京に向けて大行列を連ねている頃、江戸では、英国が生麦事件の賠償金を幕府に要求、十万ポンド(現在の価値にして150億円)という莫大な金額でした。
京都では、久坂玄瑞等長州藩が主導する攘夷過激派が、手ぐすねを引いて、慶喜と将軍を待ち構えていました。
長州は、三条らの過激な公家を動かして、幕府に対する挑発的な強硬姿勢を繰り返します。薩摩、土佐、伊予などがすすめる穏健な合体策を葬るためにも、幕府を刺激して軽挙妄動を誘導させようという作戦でした。
長州の過激策に、雄藩は手を焼き、京都を離れていきます。松平春獄も政治総裁職を辞し、福井に帰ってしまいました。
また、長州は、闇の勢力を使って、反対派にテロ行為を仕掛けていきます。
「人斬り以蔵」と恐れられた土佐の岡田以蔵ら、テロリストが横行し、京では殺傷事件が頻発したそうです。
当時、全国に4~5千人の過激な攘夷論者がおり、そのうちの5~6百人が刺客として暗躍したとのこと。京の街には、血の臭いが消えることがありませんでした。
安政の大獄で弾圧側にいた者たちや、彼らと通じていた公家、商人、芸妓までもが刺客の対象になりました。公武合体派も狙われ、岩倉具視は郊外への隠遁を余儀なくされます。
激化する長州のやり方に、幕府は防戦一方となり、一人残された慶喜は、なんとか孤軍奮闘しましたが、4ヶ月ほどでついにプッツン。
文久3年(1863年)4月20日、「攘夷期日を5月10日とする」と独断で宣言して、江戸に帰ってしまいます。
長州の執拗な策謀に嫌気が差し、「どうにでもなれ」と空手形を出したのが実情のようです。
江戸に帰った慶喜は、その真意を測りかねている幕閣を前に「期するところあって、将軍後見職を辞する」と宣言して、ケツをまくってしまいました。
この宣言を受けて、長州は、さっそく5月10日、馬関海峡を通過する、米、英、仏、蘭の商船に発砲を加え、攘夷を決行します。
また、この数日前に、幕府が生麦事件の賠償金を英国に支払い、英国艦隊は、今度は、実行犯たる薩摩に賠償を求めるべく動き出します。
いよいよ、長州、薩摩の二大雄藩が、西洋の近代兵力の凄まじさを痛感する時がやってきます。

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