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夕学レポート

2008年07月12日

廃藩置県への道 『海舟がみた幕末・明治』第11回その一

鳥羽伏見の戦いに明けた慶応4年(1968年)は、九月に明治元年と改まりました。
翌2年の三月には、明治天皇の東京への動座も完了。春までには、新政府の主力メンバーのほとんどが東京に集まってきました。
とはいえ、その実態は混沌状態で、各自が自藩の利を考えて自己主張を繰り返すばかりで収拾が付かない事態となりました。
新政府の中核として重きをなすのは、下級武士層出身の志士と一部の公家だけで、政争には強くても政務には疎い者ばかり、目指すべき青写真があるはずもなく、混乱は深まりました。
本来、新たな国づくりの中心になるはずの、長州木戸、薩摩大久保の両有力者が、性格と考え方の相違から、意思疎通を欠きがちだったことも混乱の一因だったとのこと。
統制派の内務官僚タイプである大久保利通と八方気配り派の外務官僚タイプの木戸孝允では、水と油の違いがあったようです。
半藤さんが紹介された当時の狂歌の一節
「上からは、明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」


当時の新政府が抱えている喫緊の課題は、1.天皇中心の中央集権体制をどう作るか、2.朝鮮を中心とする外交問題への対処の二つでした。
混乱を極めるなか、封建制度からの脱却に繋がる、ある提案が姫路藩主酒井忠邦から出ました。いわゆる「版籍奉還」です。
この案に、木戸と大久保が乗り、藩主を強引に口説いて道筋をつけます。
まず、薩長土肥の四藩主が率先して、土地と人民を朝廷に奉還することを宣言。これを受けて、二百六十余藩の版籍奉還が実現しますが、その内実は、激しい非難、憎悪の嵐に包まれていました。
政府は、藩主をそのまま知藩事として、中央が命名した行政官にスライドさせて決着を図り、建前としての封建制度はここに崩壊したことになります。
合わせて、身分制度も改革。公卿諸侯は「華族」、武士は全て「士族」、庶民は「平民」と呼ぶこととなりました。
事態が動きだしたところで、策士大久保が、動きだします。得意の寝技を発揮して、政治体制の刷新をはかり、うるさ型を排除した新体制を作ります。
更には、有力メンバーの寄せ集め集団であった親政府を機能分担型の官僚機構に変更すべく組織体制の変更を繰り返します。
その過程で、反対派(木戸派)を追い出し、自分の息のかかったメンバーを周囲に配置していきました。
また、新政府の統治機構を強化するために不可欠だったのが、政府直轄の軍事力の養成でした。知藩事に世襲を認めた当初策のままでは、彼らを武力で牽制する体制を確保しておかねば、またぞろ封建制度が復活するリスクがあったからです。
これについては、大村益次郎が、徴兵による国民軍の創設を主張しますが、大久保がそれに反対し、木戸は徴兵制の意義を認めつつも、現実策をとって大久保に同調します。
大久保等の考えは、薩長の兵を政府直轄の軍隊(親兵)に編成し直すというものでした。
大村が刺客に襲われると、事が動き出します。
まず、帝政ロシアを視察し、強固な政権の基盤には軍事力の裏付けが不可欠であることを痛感してきた山県有朋の動きです。彼はまた、大村益次郎の構想していた徴兵制を前提とした近代兵制度を引き継ぐ思想も持っていました。
山県は兵部少輔への任命を打診されるに際して、二つの条件を出しました。
1.兵制の統一
2.西郷の東京招致と軍政改革の首班へ指名
西郷という絶対的な存在を利用して、改革を進めつつ、大村が描いていた青写真を実現しようという目論見でした。
兵制改革、国軍設立、廃藩置県の大業を図ろうというものでした。
現実的には、故郷に帰った西郷が強化していた薩摩の兵力を、ご親兵として活用しようという目的もあったようです。
稀代の陰謀家と称されることも多い山県有朋ですが、半藤さんは、その構想力と政治力を高く評価しているそうです。
山県とともに、大久保、岩倉が薩摩に出向き、西郷担ぎ出しに取りかかります。
西郷は、この申し出を快諾し、長州、土佐にも声掛けをして、薩長土三藩の兵をもって御親兵を組織することを快諾します、その数一万人。中央政府直轄の最強近衛兵団が整いました。
明治四年一月、西郷は、この大兵団を率いて、再び東京へやってきました。
西郷の再登場は、維新がはじめて形になりはじめた瞬間でもありました。
これを期に再び政治体制が刷新され、西郷、木戸が参議に就任し、大久保は一歩後ろに引き下がります。
この新体制で、一気に「廃藩置県」の強硬策が具現化されていきます。いわば封建制度の完全廃止が宣言されたわけです。
これまでの経緯から諸藩主や封建制度論者からの猛反発が想定され、前途多難を苦慮する木戸や大久保を前にして、西郷は次のように言い切りました。
「貴公らに廃藩置県の手順さえついておるというのであれば、その上のことは拙者が全部を引く受け申す。暴動あらば、必ず鎮圧してお目にかけましょう」
大西郷の真骨頂と言える発言です。
西郷の迫力の前に、諸知藩事は沈黙し、明治四年七月十四日廃藩の勅令がくだり、二百二十余藩は、三府七十二県へと改まりました。

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