夕学レポート
2008年07月12日
武士の世の終わり 『海舟がみた幕末・維新』第11回 その2
3月から続いてきた、半藤一利史観『海舟がみた幕末・維新』もついに最終回です。
思えば、黒船来航から西南戦争まで、幕末・明治、激動の四半世紀を一気に語り下ろしていただきました。
この講演をもとに、近々新潮社から本が出る予定ですので、皆さん乞うご期待。
また講演CD集も発売されることになっていますので、こちらもお楽しみに。
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明治四年(1871年)7月14日、廃藩置県の詔勅が下り、封建体制から天皇中心の中央集権体制への変革がなされました。新政府は、大きな課題のひとつを片付けたことになります。
その年の11月には、岩倉具視を全権大使とする使節団が米欧に向けて出帆します。
世にいう岩倉米欧使節団です。
木戸、大久保、伊藤らの要人46名に加え、中江兆民や津田梅子など留学生を含む総勢100名超の大使節団でした。
その目的は、
1.幕末以降の条約締結各国への国書の奏呈
2.不平等条約改正に向けた下準備
3.各国の近代的制度・文物の調査研究
でしたが、条約改正交渉は、早々に認識不足が露呈して失敗に終わり、結果的に、西洋諸国を視察しながら、新たな国づくりの構想を巡らすことが主目的となりました。
米国から欧州を巡回する、実に1年10ヶ月に及ぶ長期間の旅でありました。
留守政府を預かったのは三条実美、西郷、板垣、山県等々。加えて勝海舟や山岡鉄太郎らの旧幕臣も呼び込まれ、総力を挙げて留守を守ることになりました。
使節団と留守政府の間には、留守中に大きな政策変更を行わない旨を約した十二箇条からなる約定が結ばれていました。ところが、西郷はこれを一切無視し、大胆な変革策を次々と実行していきます。
まずは、朝敵大名の特赦と旧東軍の大抜擢です。
徳川慶喜、松平定敬(桑名)、松平容保(会津)らが免ぜられ、函館戦争の責任者全員も赦免されます。のみならず、大鳥圭介、榎本武揚等を役人として登用する思い切った政策でした。
勝海舟は海軍大輔(海軍のトップ)の就任、大久保一翁も文部省で重用されます。
この時、陸軍大輔に就いたのが山県有朋でした。
更には、宮廷改革にも着手します。
公卿出身の侍従たちを次々と罷免し、後任には薩摩、長州等々の討幕派志士や幕臣の山岡鉄太郎等を送り込み、宮廷の雰囲気を一新させます。天皇を取り巻く女官の総免職も断行し、旧習も一掃してしまいます。
二十歳の天皇に対して、武術訓練を行うこととし、天皇自身もこれをいたく喜んだとのこと。
これら一連の改革は、西郷の名声と影響力を一段と高める結果にもなっていきました。
残された国内課題は、なんといっても徴兵制の実施でした。
徴兵制を中核とする近代兵制構想の立案者であった大村益次郎の後継者を自認する山県有朋は、陸軍を束ねる立場に就くと同時に、大村が描いた青写真の実現に向けて動き出します。徴兵制構想に対しては、全国四十万人の武士が猛烈に反対。特に西郷の足下薩摩には、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介等、後に西南戦争を引き起こした武闘派が勢揃いしており、反対の急先鋒でもありました。
一方の山県は、汚職事件の容疑で窮地に立たされるも、持ち前のしぶとさを発揮して、西郷に取り入り、明治五年(1873年)11月には、徴兵告諭にこぎ着けます。
「後世の双刀を帯び武士と称し、抗顔座食し、甚だしきにいたっては人を殺し、官その罪を問わざる者の如きにあらず」
足軽出身で苦渋を嘗めてきた山県の恨みが込められた真っ向からの一撃であったと半藤さんは言います。
続けざまに全国六カ所の鎮台設置、国民皆兵の徴兵令の発布と手を打ち、平時3万人余、戦時4万6千人余りの動員が可能になる新体制が整いました。
これは伝統ある「士族の役割」を否定するものでもあり、大騒動が頻発しました。士族はもとより、徴兵される平民の間からも怨嗟の声が沸き起こり、世情は大混乱に陥ります。
これを治めてみせたのは、またしても西郷隆盛でした。
山県に陸軍大輔を辞任させて一応の始末をつける一方で、「これ以上文句があるなら俺が聞く」と宣言。この一言でもって事態を沈静化させてしまいます。 おそるべし西郷さん。
ほとぼりが冷めた翌6年6月には、西郷の推挙で山県が初代陸軍卿(陸軍大臣)に就任、山県の執念が実った瞬間です。これ以降、山県は陸軍のドンとして君臨し続けるのみならず、元老として政界に隠然たる力を持つことになっていきます。
徴兵制以外にも国内課題を片付けた西郷に、最後に残されたのが、朝鮮をめぐる外交問題でした。修好を求める日本からのアプローチを、朝鮮が拒絶したことを契機に、「朝鮮討つべし」の声が日本国内に沸き起こります。いわゆる「征韓論争」です。
この論争の事の起こりや経緯は、多く語られていますので、詳細は省きますが、半藤さんは、争いに敗れた征韓派が、西郷、板垣、江藤等の参議のみならず、近衛兵団や陸軍の指導者に至まで総勢三百人近くも辞めてしまったことに着目します。
本来、天皇を守るためにある近衛兵団や天皇中心国家の中軸であるべき参議が、さっさと使命を放棄してしまうあたりに、天皇中心国家観が実態を有していなかった当時の意識がみてとれるのではないかとのことです。
さて、征韓論の後、政府は大久保利通の独裁体制が形成されていきます。下野した反政府勢力は、次々と散発的な反乱を起こしては鎮圧され、鎮圧を通して、山県肝いりの徴兵軍団は経験を積み、近代兵器を整えていきます。
明治十年(1868年)、西南戦争が勃発。この戦いの最中に木戸孝允が病死、西郷は戦に敗れて自害し、大久保は翌年凶刃に倒れます。
三人の死は、武士の時代の終焉を告げるものでもありました。
維新の三英傑は、ここに全て姿を消し、後を継いだ山県有朋、伊藤博文によって、明治という時代が切り拓かれていくことになります。
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