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夕学レポート

2010年01月15日

『坂の上の雲』を見ようとしない現代人 ロバート・キャンベルさん

昨年末に放映されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の同名作品を原作としている。この本が司馬の代表作として高く評価されてきた理由のひとつにタイトルの妙があげられるだろう。
明治の日本は、ただひたすらに坂を駆け上っていた。彼らが見据えていたのは、眼前の到達点である「坂の頂」ではなく、その遥か向こう、大空に浮かぶ一筋の雲ではなかったのか。明治の日本と日本人を愛する司馬ならではの分析視点であった。
坂の向こうに漂う雲に擬えていたのは、生まれたばかりの小国日本の行く末であり、世界における日本の位相であった。
ロバート・キャンベル先生は、これをして「時間・空間認識」と呼び、この時代の日本人が持っていた認識スケールの大きさを指摘する。
ちなみにキャンベル先生の名をお茶の間に知らしめたのは、テレビ朝日の人気クイズ番組『Qさま』である。
キャンベル先生は、『Qさま』が、現代日本の特性をよく表しているという。
知識・情報がブツ切りで積み上げられている。ひとつひとつの知識は高度であっても、ブツ切りである以上は、いくら積み上げても完成型に至らない。
そこには、抽象的ではあっても、ある概念を作りあげようというモデルが存在しない。
「時間・空間」の認識の仕方そのものが、大きく異なっているというのだ。


キャンベル先生が、専門とするのは、近世から明治にかけての日本文学である。西暦でいえば、1860年代を中心とする前後100年間程の時代にあたるのであろう。
この時代、日本を取り巻く内外環境は、ギシギシと軋みを響かせながら動いていた。(詳細は、夕学プレミアム「幕末史」を参照)
その変化を、当時の人々がどのように受け止め、認識しようとしていたのか。そこに「時間・空間認識」の広さを感じるとキャンベル先生は言う。
何の準備もないままに、国際関係の渦中に飛び込んでいった日本は、貪欲なまでに海外知識を収集しようとした。幕末から明治にかけて、数多くの海外使節団や留学生派遣、外国知識人招聘が行われた。
新たな知識・技術の導入と合わせて、世界の有り様、日本の行く末について関心が高まっていった。
特筆すべきは、その旺盛な知識欲や向上心は、政治家、官僚、軍人、経済人などの権力・知識層だけではなく、庶民一般に至るまで広く共有化されていたことだという。
キャンベル先生が紹介してくれた当事の資料は、庶民が読む普及本から一握りの知識層のために書かれた専門書までさまざまであったが、上から下まで、それぞれの知識レベルにあった言葉と文脈で、国際情勢や日本の置かれた立場、そこで求められる日本人のあり方を真摯に語っている。
「あらゆる階層で、取りこぼしをせずに、しかもそれぞれにマッチする体裁と文体で、社会を考えさせている」
キャンベル先生は、「国の有り様を考える」という行為をめぐる凝集性の高さに、この時代の日本の活力を感じると言う。
翻って、現代はどうか。
『坂の上の雲』の視聴率は、20%に満たなかったと聞く。幻とまで言われた作品のドラマ化であり、250億円の制作費、3年間という放映期間から、期待が大きかっただけに、やや落胆の感が広がった。
キャンベル先生の話を聞くと、さもありなんという気もする。
ブツ切り知識の積み上げに関心が向く現代人には、あえて「坂の向こうに漂う雲」を見る感覚は共鳴できないのだろう。
知りたいのは、「疲れない坂の上り方」であり、「坂道に便利な必携アイテム」であり、「坂にあった靴やファッション」なのかもしれない。
「日本の近代 始めにあって今はなきものとは」何だろうか。
どうやら、この100年間で、ずいぶんと大切なものを失くしてしまったようだ。

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