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夕学レポート

2010年05月12日

「発想の考動力」は野生の思考法  三谷宏治さん

三谷宏治さんの「発想の考動力」というタイトルとコンセプトを聞いて、ジャンルの異なるふたつの逸話が頭に浮かんだ。
ひとつは、梅田望夫氏の「高速道路とけものみち」論。
もうひとつは、杉田玄白が『解体新書』を翻訳した時の苦労話である。
梅田望夫氏は、ネット社会を「高速道路とけものみち」が連続する社会だと論じた。
世界がネットで繋がり、無料のフリーウェイを自由に利用することができる。何処にでも、短時間で、快適に行くことができる。
しかし、高速道路だけでは、けっして目的地には辿り着かない。料金所を下りると、そこには鬱蒼たる森に通じる「けものみち」があるだけである。
ネットという高速道路を使ってある程度の情報や知識は得られるが、真の価値を創出するためには、「けものみち」を歩き通す体力と知恵が求められるというわけだ。
『解体新書』は、安永3年(1774年)、杉田玄白が翻訳した日本で最初の西洋医学書である。
彼は、当時オランダ語(蘭語)がほとんど出来なかった。当然ながら辞書もなく、教えを請う師もいなかった。翻訳は、あたかも暗号を解読するかのような手探りの作業であったという。
中でも困難を極めたのは、鼻の項目にあった「フルヘッヘンド」という語彙だったという。
この意味がどうにもわからず、片端から文献をあたった末に、ようやく辿り着いたのが、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土聚(あつま)りて、フルヘッヘンドをなす」という訳注文だった。
つまりフルヘッヘンドとは、「うずたかく盛り上がった形」という意味であったのだ。
当時の人々が、外来の先端知識を身につけるのに、いかに苦労したのかを物語る逸話である。
三谷宏治さんが主張する「発想の考動力」とは、高速道路の運転テクニックではない。
「けものみち」に求められる、動物的な生存能力である。
そして、「フルヘッヘンド」のエピソードは、江戸の知識人達が、いかようにして「けものみち」を歩いたのかを教えてくれる。
「発想の考動力」の具体例に他ならない。


「けものみち」を歩くには、身体全体を使った感受性と粘り強さが必要である。
どこが道であって、どこが道でないのか。
向かう先には、獲物がいるのか、危険が潜むのか。
命を繋いでくれる水は、どこにあるのか。
わずかな兆候を見逃さぬように目を凝らし、耳をそばたて、鼻を効かさねばならない。
うろうろと動き回り、きょろきょろと見回し、身体全体を使って変化をわしづかみにしなければならない。
「座って悩むな! ハカって考えよ、動いて考えよ」
三谷さんのメッセージは、「けものみち」を生き抜く術を説く言葉に聞こえる。
「発想の考動力」と対極にあるのが「効率」という概念であろう。
「効率」的な考え方に従えば、価値の大きさは、コストと目的に割合で決まる。
無料の高速道路を使って、時間と労力というコストを削減すれば、価値は向上するはずである。
ところが、「発想の考動力」的に言うと、時間と労力の削減は無意味である。逆に邪魔になることさえある。「効率」は、発想=価値を貧弱なものにしてしまいかねない。
高速道路の運転に慣れきった人間は、「けものみち」を歩くことができないのだ。
たっぷりの「自由」と、ある程度の「貧しさ(制約)」を与えよう。
三谷さんは、「発想の考動力」を鍛え上げるために必要な環境を説く。
「けものみち」を歩くには、十分な時間が必要だ。便利な道具もない方がいい。
「自由」と「貧しさ」が生み出す能力。
「発想の考動力」とは、“野生の思考法”である。

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