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夕学レポート

2010年05月25日

「男おひとりさまは女縁に学べ」 上野千鶴子さん

『男おひとりさま道』という本は、中年男には、けっして気持ちよく読める本ではない。
「オレが大黒柱だ!」と鼻をうごめかせている男どもの前に、上野先生がツカツカとやって来て、「アンタ達、だからダメなのよ。これでも読みなさい」と、見たくなかった現実を突きつけたような本である。
上野先生も、本音を言うと、この本を書きたいとは思っていなかったようだ。
「だから男おひとりさまについて書くのは嫌だといったでしょ。明るい話にならないもの」
という記述が本書にはある。
『おひとりさまの老後』が75万部のベストセラーになり、色気が出た編集者が、「先生、男のおひとりさま本も必要ですよね」と無理やり口説き落としたのかもしれない。
いや、つまらぬ憶測はやめよう。
「アンタ、だからダメなのよ」と上野先生から叱られそうだ。
上野先生の講演は、理論整然、論旨明快。皮肉とユーモアを随所に織り込んで進んでいく。身につまされながらも、男のバカさ加減に思わず笑ってしまう。そんな2時間であった。
男であれ、女であれ、老後を「おひとりさま」で過ごす人々の数は、ますます増えていく。
それは、成熟社会に入ったわれわれが直面する当然の帰結であって、望むと望まざるとにかかわらず起きる事象である。
だとすれば嘆いたり、文句を言ったりする前に、せっせと準備をしないといけない。
上野先生はそう指摘する。
おひとりさまの問題は、家族に変わる代替ネットワークが存在しないことだという。
環境が変わった(少子化、家族観の変容)のに、いざという時に頼りにする杖は昔のまま(子供)で、すでにすっかり弱くなっていることに気づいていないことだ。
「家族持ち」から「人持ち」へと、上野先生は提唱する。
結婚がデフォルトである時代が終わり、なおかつ少子化が進めば、家族・親族ネットワークは縮小していく。いざという時に頼りになる「第三のネットワーク」を持つことが幸せな暮らしに繋がっていく。
「選択縁」
上野先生は、このネットワークをそう名付けている。
巷間叫ばれる地域コミュニティーの再生ではない。自分の意志で「選択」でき、自発性とゆるやかな所属によって成り立つ新しい「縁(えにし)」のあり方である。
加入・脱退が自由で、
強制力がなく
包括的コミットメントを要求しない
それが「選択縁」の定義になる。
「選択縁」のノウハウは、圧倒的に女の世界が先行しているという。
例えば転勤族の妻達に代表されるように、女性達は、デラシネ的生き方をいち早く適応してきた。
知り合いがいない。親戚がいない。頼る人がいない。自分でゼロからネットワークを結び直さねばならない。
女性達は、そういう環境で、ネットワークを培う術を身につけてきた。
上野先生は、これを「女縁」と呼ぶ。
子供の預け合い。料理のお裾分け、お土産や心遣い。礼服の貸し借り。冠婚葬祭の手伝い。なんと不倫の手助けまで、彼女達は相互扶助的ネットワークを築くことが巧みである。
「女縁」の達人のネットワークマップを分析すると、複数の性格の異なる集団に所属し、いずれもアクティブに活動している。しかも、ネットワークのコンパートメント管理が出来ており、いくつもの顔を集団の性格に応じて使い分けることができる。
「こちらがダメなら、あちらがある」
というリスクマネジメントが為されているのである。
男達は、女性達のネットワーキングメソッドに、謙虚に学べばよい。
ところがそれが出来ない。
数少ない「男縁」の存在を調べてみると、実に心もとないという。
「こいつと知り合うと役に立ちそうだ」という下心が透けてみえる。力関係や権限にこだわる。名刺がないと自己紹介が出来ない...。
ビジネス世界で染みついたノウハウを、そのまま持ち込んでしまうのだ。
しかも、上手にやっている人達は、決まって出世していない。
仕事の成功とおひとりさま道の幸せは比例しないようだ。 
だとすれば、先行している「女縁」にあとから入れてもらうのが得策だ。
「女縁」も、異質性の加入は、限度を超えなければウェルカムとのこと。
その時に必要なのは、「下り坂をおりるスキル」だという。
自分の「弱さ」を正直に吐露することだ。
男同士で張り合いながら助け合うより、「女縁」に入って、上手に弱音を吐くことだという。
なるほど、確かにこれは真理だという気がする

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