夕学レポート
2010年06月16日
苦を苦として認めること 小池龍之介さん
小池龍之介さんは5時過ぎに会場入りし、別室で一時間ほど瞑想に入った
きょうの講演に向けて、意識を集中するためである。
簡単な打ち合わせを終えて、6時15分からは、開演前のステージ上で座禅を組み、再び瞑想をした。
会場の光、音、温湿度など環境情報が自分にどんな感情を呼び起こしてくれるのか、わずかな心身の働きに意識をフォーカスするためである。
講演は、ささやくような小さな声であった。
聴衆の意識を意図的に集中させるための仕掛けのようにも思える。
(あまりに小さくて、マイクで拾いきれなかった面もあったようです。たいへん申し訳ありませんでした)
話の合間に、わずかな間、沈黙がある。よく見ると目を細め、仏さまのような半眼瞑想のようでもある
いま、この瞬間に自分の心に浮かんでくる感情や思いに耳をすませていているのかもしれない。
小池龍之介さんは、山口県の正現寺というお寺に生まれた。東大では西洋哲学を専攻したというから、早くから「深く考える少年」であったのであろう。
小池さんと同じような境遇で生まれ育ち、サラリーマンを経て僧侶になった方に南直哉さんがいるが、この冬に夕学にお越しいただいた際に、私は次のような感想をブログに記した。
恐らく南さんは、幼いころから、普通の人間が気づかなかったこと、考えもしなかったことを、考えずにはいられない。そういう性(さが)のもとに生きてきた人ではないか。
「私」という困難を抱えて生きている人なのだ。
考えて、悩んで、いくら考えてもわからないことを知るため。それが仏教を選択した理由であろう。
「仏教は、人間に幸せをもたらすものではない。苦悩に耐える力を与えるものである」
南さんは、そう語った。
小池さんは、別の言い方で、これを表現する。
「人間は、さまざまな煩悩を、自分にとって都合のいい感情に変換をしている」
「そのことに気づかずに、何度も繰り返すことで、無自覚的な苦しみの連鎖に絡め取られている」
恐れ、妬み、怨み、驕りといった煩悩を、元気よく、相手のため、みんなと一緒に、といった快楽感情にすり替えて表出する。自分では、煩悩を打ち消したつもりでも、それは「偽」に過ぎない。
「悪」を「偽善」に、「苦」を「偽快楽」にデータ変換をしているだけだ。しかもまったく無意識のうちに。
仏道でいうところの「一切皆苦」を、小池さんは、このように解釈している。
では、どうすればよいか。
「苦を苦として認めること」
それが仏道の入口であるという。
悲哀、憤怒、憎悪、悔恨といった抑圧しがちな自分の感情に素直に向き合い、その存在を認めることから、修業がはじまるのかもしれない。
そのための方法が、瞑想であり、座禅である。
小池さんも修業をしたというタイの寺院には、「苦を苦として認める」ために瞑想修業をしようと門を叩く人々が多いという。
そこでは在家信者に限らず、修業を志すものは広く受け入れ、粗末ながらも部屋と食事が与えられ、共に瞑想修業をすることが出来る。
釈迦が生きていた頃の原始仏教の形態は、きっとこのような開かれたものであったに違いない。
小池さんが主宰する「iede café」や月読寺は、現代の日本に再現した、ささやかな瞑想修業センターではないだろうか。
若き瞑想家、若き座禅指導者 小池龍之介の志がここにある。
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