夕学レポート
2010年07月23日
神は細部に宿る 種田陽平さん
「映画は“総合芸術”と言われますが、わたしはこの言葉が嫌いです」
実は控室で、何気なく、「映画って総合芸術ですよね」と口にしてしまったのだ。その言葉に敏感に反応した種田さんは、ソフトで紳士的な対応ではあるものの、力強く反論をされた。
そのまま講演に臨んだ第一声が、冒頭の言葉であった。
映画美術という、個別具体的な部分を担うプロフェッショナルとして、総合という、わかったようで、よくわからないタイトルで、自分の仕事を「ひと括り」にまとめて欲しくはない。そういう意志を感じた。
ふと、分子生命学者の福岡伸一さんの言葉を思い出した。
「部分をいくら集めても、全体にはならない」
「部分をいくら見ても、全体はみえない」
生命は、絶え間ない流れの中にある動的なもの、絶妙なバランスを保ちながら同一性を維持し続けている。部分の集合体は全体でない。
それが福岡さんのお話であったが、「映画芸術」とは、それと正反対のようである。
「部分に徹底してこだわることで、全体に命が宿る」
種田さんなら、きっとそう言うだろう。部分を担うプロの矜恃を持った人である。
種田さんによれば、映画芸術とは「場面を設計すること」だという。
登場人物が、彼らの物語を生きるために、もっとも相応しい「場面」=どのような場所、どういう状況、を設計する。 物語の命を与える存在が、映画美術である。
映画は、言わずと知れた動画の世界ではあるが、種田さんの創り出す「映画美術」は、頭の中に描かれた象徴的なワンシーンを切り取り、静止画で表現する。絵画のようなものだという。
種田さんはフェルメール「画家のアトリエ」を例示しながら、「映画美術」の精神を解説してくれた。
この絵の中には、絵を描くフェリメール自身の姿が、彼の時代から100年昔の衣装を着て描き出されている。彼自身のアトリエにはないシャンデリアや市松模様の床も描き込まれている。
見えないはずの自分を描く。存在しないはず時代と環境を生きている。
「映画美術」もよく似ているという。
見えないものを描き出すことで、現実以上に現実らしい世界を表現する。
存在しないものを描き出すことで、現実かのようなフィクション世界を表現する
それが、「場面を設計すること」だという。
種田さんのこだわりは「光と陰」「奥行き感」にある。
このふたつが醸し出す立体感が「現実以上のリアル感」「現実かのようなフィクシション」を可能にする。
数々の映画美術賞を獲得し、日本映画を代表する美術監督と言われるゆえんなのであろう。
「映画はごちそうではなくなりました」
種田さんは言う。
100年前の初めて映画を観た人々は、向かってくる汽車の映像に驚き、飛び退いたという。
柳田国男の言葉を借りれば、かつて、映画は「ハレ」=非日常であった。そよゆえに印象に残りやすい。感動の余韻も長かった。
いま、映画は「ケ」=日常になった。宿命として、印象はうたかたで、感動の賞味期限は短い。
夕学にも登壇された李鳳宇さんによれば、日本人の映画鑑賞回数は、1.9回/年である。
欧米先進国の平均は4回、韓国は8回だそうだ。
このままでは、日本の映画産業はテレビとアニメしか残らない。
悲観的な将来を危惧する人もいる。
だからこそ、後世に残る芸術を残したい。
種田さんはそう思っている。
種田さんが、東京丸の内の夕学で、350年前のフェルメールを解説するように、何百年か後に、『フラガール』や『キル・ビル』の名画のスチールフォトが、その時代のアーティストによって解説されている。
種田さんの頭の中には、そんな静止画がイメージされているのかもしれない。
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