夕学レポート
2010年07月27日
明治の青春物語が削ぎ落としたものは何か 松本健一さん
松本健一さんは、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の外部諮問委員も務めている。司馬遼太郎の代表作とされながら、司馬が映像化を頑なに拒否したという、いわく付の作品である。
司馬の思いがどこにあったのか、いまとなって知るよしはない。同じように在野の歴史著述家であり、生前から交流のあった松本さんの役割は、歴史的な考証と司馬のこだわりをバランスさせながら、ドラマ作りに寄り過ぎる余りに、ありえない設定・描写に走らないよう、台本をチェックすることだったという。
『坂の上の雲』は歴史書ではなく、物語である、と松本さんは繰り返す。
そこには、「明治という時代」に対する司馬さんの肯定的な歴史観が反映されており、日本の青春時代を、あえて明るく描き出すために、意図的に触れなかったいくつかの史実があるという。
きょうの講演は、それを忖度しながら読み込むという『坂の上の雲』の高度な楽しみ方を教えていただいた。
松本さんは、『坂の上の雲』の主要登場人物のひとり、正岡子規が残した【明治廿三年三月 常磐ベースボール番附私見】という資料を提示しながら、「明治という時代」の解説を始めた。
子規が、野球という訳語の命名者という説もあるほどベースボール好きだったという話は有名である。この資料は、旧松山藩が東京で勉学する郷土の若者のために運営していた常磐会という寄宿舎の仲間達の野球技量を、子規が番付化にしたものである。
この番付が書かれた明治23年は、日本にとって象徴的な年であった。
大日本帝国憲法が施行され、最初の衆議員選挙と帝国議会が開催された年である。いわば、近代日本の民主化が途についた頃であった。
明治維新から23年を経て、明治という時代は、まさに青春時代を迎えていた。
「国民国家」の時代がはじまろうとしていた、と松本さんは言う。
明治政府は、会津をはじめとする賊軍派の旧藩に対して、徹底して苛烈な仕打ちを取ったが、一方で、「青雲の志」を持った若者が、人生を拓く道筋も用意していたという。
明治初期に出来た、師範学校、士官学校、司法学校の三つの官立学校は、いずれも学費を必要とせず、賊軍旧藩の貧しい若者達にも門戸を開いた。
『坂の上の雲』のもう一人の主人公 秋山好古は、賊軍であった松山藩、下級武士家の三男に生まれ、「学費不要」という一点に救われて、師範学校から士官学校へと進んだ。
やがて日清・日露の大戦で軍功をあげ、陸軍大将として名をなした。最後は故郷松山中学校の校長として余生を送り、「立身出世」の体現者として、故郷の誇りとされた人物である。
【明治廿三年三月 常磐ベースボール番附私見】に記載されているのは、同じように「青雲の志」を持って上京した松山の若者達であった。
『坂の上の雲』のクライマックスは、日露戦争である。
「国民国家」の時代がはじまった明治23年から14年後、日本の近代化はひとつの到達点に達したと言える。
世界の強国とされたロシアと戦うということは、国際社会の中で、日本が世界の強国と互していくことを証明するための戦いでもあった。
昭和の戦争のような、天皇のための戦争ではない。蛍雪時代を乗り越えた、名もない国民が、ひとり一人の役割を果たし、「国民国家」としての戦争を戦った。
司馬遼太郎は、『坂の上の雲』をそういう物語として描いた。松本さんはそう解釈している。
奇しくも『坂の上の雲』が産経新聞で連載開始されたのは、終戦から23年後の昭和43年、高度経済成長時代の頂点であった。「昭和という時代」もまた、青春時代を迎えていた。
青春時代の昭和に、青春時代の明治を書く。『坂の上の雲』は書かれるべき時代に書かれたことになる。
さて、日本の青春物語として『坂の上の雲』を書いた司馬が、青春物語ゆえに削ぎ落としたものは何か。
【明治廿三年三月 常磐ベースボール番附私見】に記された人物の生涯を、ひとり一人丹念に調べてみると、自ずと「司馬が削ぎ落とした部分」が見えてくると、松本さんは言う。
明治日本の到達点である日露戦争が、昭和の日本が破滅に向かうスタートになったということは、半藤一利さんが、「国家興亡40年説」で説く通りである。
この時から、日本の大いなる勘違いがはじまった。
そして、破滅への道を導いていった人間も、明治の青春を生きた人物であった。
番附に東の大関として載る「勝田主計」は、東京帝大から大蔵官僚を経て政治家になり、大正から昭和初期の軍事国家の財政基盤を整える役回りをした人物である。
同様に、東の前頭として名前のある「五百木良三」は、後年国粋主義者として暗躍し、韓国併合や満州進出の黒幕として名を残すことになった。
五百木は、子規をして「俳句の天才」と言わしめた文学の才を持ち、新聞「日本」で子規と机を並べた人物だという。
『坂の上の雲』の中で、子規を丹念に描いた司馬遼太郎が、それを知らなかったはずがない。あえて「五百木良三」を削ぎ落としたのではないか。
坂道の向こうに広がる大きな空には、ひと筋の白雲こそが相応しい。暗い行末を暗示するような黒雲はない方がよいのだから。
常磐会の宿舎は、現在の本郷炭団坂の崖淵にあったと言われる。明治中期には、旧加賀藩や水戸藩の広大な敷地が、野原として広がっていたに違いない。
そこで、舶来のベースボールに興じる書生達の中に、若き日の正岡子規や秋山真之がいた。彼らの投じる球を打っていたのが勝田主計であり、五百木良三であった。
子規は、俳句・短歌の革新者として文学史に名を残し、真之は、日本海海戦の作戦参謀として勝利を呼び込んだ。勝田と五百木は、図らずも日本破綻への道を示すことになった。
彼らが見上げていた明治の青空には、ひと筋の白雲と同時に、不気味な黒雲も見えていたのである。
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