夕学レポート
2010年12月17日
「習合性」という力 鎌田東二さん
「日本の聖なるもの、神なるもの」というタイトルは、私が考えて、鎌田先生にお願いした「お題」である。この中に、無自覚に盛り込んでいた「もの」という言葉を解説することから、鎌田先生の講義ははじまった。
古語の「もの」という言葉自体が、対極にある二つの含意をもっていたという。
ひとつは、物質としての「もの」であり、いまひとつは、神聖としての「もの」である。
(例えば、原始神道の形態を色濃く残しているといわれる大和の古社 大神神社の祭神は、「大物主大神(おおものぬしのおおかみ)」であり、国津神の代表 大国主神の別名とされている。神聖の象徴でもある)
「もの」という言葉は、マテリアル(物質性)とスピリチュアル(精神性)という、相反する意味を併せ持つ「習合性」に満ちた言葉であった。
習合とは、異なるものの「融合」ではなく、弁証法的な「統合」でもない。A+BからCが生まれるのではなく、AとBの両義性を持ちながら一体化されるという意味である。
日本における「神」も「習合性」から成り立っている。
鎌田先生は、銀行のM&Aと一緒だ、という。例えば「三井住友銀行」のように、本来肌合いが異なり、競い合う関係にあったもの同士がひとつになりながら、互いの名前を降ろすことはしない。
日本の「神」も同じように、勝者の神が、敗者の神・土地の神を習合しながら、いくつもの顔を併存させて存在している。だから別名をいくつも持っている。
「神」とは、日本列島における特定の聖なるものの存在・威力・はたらき・情報などの総称、つまり「聖フォルダ」である。
鎌田先生は、そう定義している。
「習合性」というのは、見方を変えれば、原理原則がない、無節操な方法にも見える。論理や体系が欠けているので理解がしづらい。それゆえに多くの西洋人は、日本の多神教を原始的で遅れた観念だと片付けてしまう。
しかし、無節操なゆえに強靱で生命力に富んでいる。論理や体系がないからこそ、神々に序列がなく平等である。自然への畏怖や畏敬に満ちている。
それこそが、本来の宗教の姿のようにも思える。
非論理的な存在は、言葉や概念で理解することが難しい。むしろ感性で捉えるものである。ここに日本神道の特徴があり、分かりにくさと深遠さがある。
神官の資格を持ち、宗教実践家でもある鎌田先生の「神」へのアプローチ方法も感性重視であるようだ。
天の音に擬えた「石笛」、地の音をイメージする「ホラ貝」、天地逍遙を意味する「横笛」を三種の神器として持ち歩き、事ある毎に演奏して「神」へのメッセージを送る。
住まい(京都)の窓からは、毎朝・毎夕比叡山を臨み、礼拝作法に則った祈りを捧げる。
日本各地の聖地を巡礼する私設ツアーを組織し、岩座(いわくら)や巨石遺構、祭祀遺跡の前で神事を執り行っている。
古代の日本人が、「神」に対して抱いていた畏怖・畏敬の感覚を1500年の時空を越えて追体験しようという試みかもしれない。
「習合性」という概念は、現代の文脈に直せば、ダイバーシティーやイノベーションといったホットイシューに通じているに違いない。だとすれば、日本人が得意技である。
対極にある異なった存在を包含し、それぞれの良さを生かしつつ並立させる。
かつての日本人が多様な「神」に対峙し、畏れ敬うことで身につけた方法である。
古代の「神」への向かい方から、グローバル時代の作法を学ぶ。これも「習合性」ではないだろうか。
この講演に寄せられた「明日への一言」(20件)です。
・http://sekigaku.jimdo.com/みんなの-明日への一言-ギャラリー/12月16日-鎌田-東二/
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