KEIO MCC

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夕学レポート

2011年07月22日

わからないことが「知的な体力」を鍛える  鷲田清一さん

photo_instructor_571.jpg小学生時代の私は、手先がひどく不器用で図画工作や家庭科を大の苦手にしていた。
ある年の夏休み、家庭科の宿題は「鍋つかみ」の作成であった。家庭の余り布を材料に、足踏み式ミシンで縫ってくることが課題であった。(そういう時代でした)
最初は途方に暮れ、やがてすっかり忘却の彼方に置き去り、短い夏休みが終わろうとする日の夜、私は母にすべてを「丸投げ」した。
私の能力をよく知る母は、「しょうがないわね」と言いながら、ササっと片付けてくれた。
それを見ていた父親が、「自分でやるべきことはやらせないと駄目だ」と怒り出し、それに対して母親が「ミシンの針に糸も通せないこの子に、出来るはずがない」と、我が子を庇うのか、馬鹿にするのかわからないような反論をして、言い争いが始まった。
自分の不始末のせいで起きた家庭内論争を前にして、私はどうにも居心地が悪く、かといって逃げるわけにもいかず、ずいぶんと困った記憶がある。
見かねた姉が、「あんたが名前ぐらいは自分で縫いなョ」と取りなしてくれて、事なきをえたと記憶しているが、あの時の居心地の悪さはよく憶えている。
つまらない話を延々と書いてしまったが、鷲田先生の「知的体力」論を聴きながら頭に浮かんだ思い出である。
さて、ここで話題を思い切きり振って、鷲田先生がよく主張されている「価値の遠近法」について確認しておこう。
「価値の遠近法」とは、あらゆる事象・物事を次の四つに分けることである。
①絶対に必要なもの、失ってはならぬもの
②あってもいいけどなくてもいいもの
③なくてもいいもの
④絶対に不要なもの、あってはならないもの
鷲田先生は、これが上手に仕分けられる能力を「教養」と呼び、その重要性をいろいろなところで紹介している。


「価値の遠近法」には、自身の価値観を明示的にする効果がある。
四つに仕分けることによって、「何を大切にしたいのか」を自らに問い掛けることになるからだ。自己の価値観を知ることは、自己理解の最も重要な要素になる。
当然ながら、人によって仕分け方は違うので、自分の仕分け方と他者のそれを比較し、違いが起きた理由を探ることで、他者を理解するきっかけにもなる。
「価値の遠近法」を実践していくと、ある「真理」に気づくという。
「大事なものほど、仕分けづらい」
「重要なものほど、答えがない」

という真理である。
いま大きな社会問題になっている原発推進の是非を問う論争が、まさにこれにあたる。
推進派と即時廃止派、さらには漸減派、一旦凍結派等々、議論が百出する。
「何を大切にしたいのか」を巡る論争には、唯一絶対の正解などない。
さらにこの問題を突き詰めてみると、わたしたちは、正解が見えないものに、とりあえずの解を出さないと前に進めないことにも気づく。
相田みつをが書くように「考えてばかりいたら日が暮れてしまう」のだ。
私たちは、不確定要素に満ち、偶然に左右され、先行き不透明な問題に囲まれて生きている。わからないもの取り囲まれて、わからないままベストの解を出すことを迫られている。
国の経済政策も、企業の経営戦略も、個人のキャリアも、構造は同じなのだ。
こういう問題に直面して、「価値の遠近法」を使って、よくわからない問題を仕分けていく時に必要なポイントについて、鷲田先生は言う。
「ようわからんけども大事!という勘がはたらくか」
「わからんことに囲まれていても、なんとか切り抜けていく」

という野性的な思考が必要だと。
出来ることと出来ないことを素早く分類し、出来ることに集中する、 わからないことは諦めて、わかることで勝負する、といった受験ノウハウ的な適応力とは対極にある思考法と言える。
不確定なもの、わからないことに直面して、「ああでもない、こうでもない」と吟味すること、すぐに結論を出さずに(出したとしてもしつこく考え続け)、わからないものとの戦いに耐え抜くこと。
知的なしぶとさ、知的な忍耐力、それが「知的体力」である。
「知的体力」がなくなると人間はどうなるか。
流行の型に飛びつくようになる。しんどいプロセスをショートカットしたくなる。
鷲田さんは、私たちの「知的体力」を試すかのように、「最近の気になる流行ワード」を指摘していった。
「PDCAサイクルを回す」
「見える化」
「サスティナビリティ」
「アート」
「エコ」
「情報公開」
流行ワードの多くは、誰もが表だって反論できないイデオロギーを掲げて、すべてをブラックホールのように飲み込んでしまう。
この中に放り込まれると「知的体力」は鍛えられない。「知的体力」は、意見の不一致によって思考筋肉に負荷を与えることで、はじめて鍛えられるからだ。
そうは言っても鷲田先生、「知的体力」はどうやって鍛えるのですか?
そんな問いが来ることも予期したかのように、そして、社会の様々な現場に足を運び、対話の中で人々とともに考える「臨床哲学」の提唱者らしい喩えで、鷲田先生がポロっと発した言葉に気づかされて、冒頭の話を書いた。
何かの理由で両親が言い争いを始めた時、子供はどちらにつくべきか、どう振る舞うべきかを命懸けで考える。
自分が家庭内で生き延びていくために、自分なりの答えを見つけようとする。
それが「知的体力」を鍛える第一歩である。
そう考えると、私たちの日常には「知的体力」を鍛える場がいくらでもある。
居心地の悪い空間に放り込まれた時、
どう振る舞えばよいか思いあぐねている時、
空気が読めない人の発言に場が凍り付いた時、
実は、その時、その場の違和感、モヤモヤ感が、あなたの「知的体力」を鍛えてくれる。
そこから逃げだしてはいけない。
この講演に寄せられた明日への一言はこちらです。
http://sekigaku.jimdo.com/みんなの-明日への一言-ギャラリー/7月22日-鷲田-清一/
この講演について4件の「感想レポート」応募がありました。
思考停止に抗う「知的体力」を(10moki/会社員/40代/男性)
知力とは、瞬発力でもあり、持久力でもある(いちげんトム/大学職員/49歳/男性)
「知的に成熟」した市民として(相模の黒豚/会社員/40代/男性)
一差しの舞(田辺康雄/会社員/50代/男性)

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