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夕学レポート

2012年05月14日

市民宗教としての仏教 釈徹宗さん

photo_instructor_611.jpgのサムネール画像釈徹宗先生は、「市民宗教」の説明から講演を始めた。
肌感覚にまで拡散してしまった宗教、無自覚のうちに身体と精神に溶け込んでいる宗教の意味だという。
日本の仏教は、典型的な「市民宗教」だという。
私は、かつて分子生物学者の福岡伸一先生に聞いた話を思い出した。
生命を構成する分子の動きを追いかけるために、事前に色を塗って識別可能にした分子を食物の中に混ぜ、それを食べたマウスの体内で、着色分子がどのような軌跡を描くのかを追跡研究する。すると、分子はマウスの体内に入ってまもなく、タンパク質に取り込まれ、体中のあらゆる部分に分散し溶け込んでしまう。
同じように、日本人の身体と精神の中には、分子レベルにまで分解された仏教の遺伝子が、あらゆる部分に分散し、溶け込んでいるのだろうか。
仏教は、「常-主宰」の否定に特徴があるという。
すべては変化する。すべては集合体である。すべては関係性のうえに成り立つ。
だからあらゆるものは「常ならむ」存在だとする。
「無常」の概念は、あいまいで、わかりにくいという欠点もあるが、そのぶん柔軟で、融通無碍だとも言える。
日本人の行動と精神のあらゆる部分に仏教フレーバーを行き渡らせる毛細血管のような役割を担ったのが、半僧半俗の仏教者達であった。
沙弥毛坊主などの名称で呼ばれた彼らは、世俗を生きる仏教の体現者であった。


僧侶でありながら、世俗に身を置く。世俗にありながら、異界と行き来する。
彼らは、社会制度からこぼれ落ちた部分をすくい取る救済装置の役割を果たしていた。なんらかの理由で地縁や血縁を断ち切られた人々の間に、もうひとつの縁「無縁」を結んだのも彼らの所業であった。
この層が分厚いのが日本仏教の特徴であると、釈先生は言う。
彼らは、あらゆる土地、身分、階層の隙間に入り込み、血脈を形成していた。
そのネットワークの中に、仏教フレーバーをまぶした生活、習俗、文化が流れ込んでいった。
日本の伝統文化も、半僧半俗文化のネットワークの中で広まったという。
芸能とは、「芸=わざ」を、「能=まねる」という意味。宗教儀礼のわざをまねる。それが芸能者の嚆矢であった。
その中のひとつに「語り芸能」がある。
仏教用語の「唱導」に源を発し、人々の中に入って、おもしろ、おかしく仏の教えを説く半僧半俗の人々である。琵琶法師や願人坊主は、こういう人々の一派であった。
「語り芸能」の系譜は、やがて「落語」に行き着いた。
落語の祖と言われる 安楽庵策伝は、浄土宗の僧侶であった。彼が著した『醒睡笑(せいすいしょう)』は、庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集であり、落語噺の原型となったとのこと。
「始めしんみり、中おかしく、終わり尊く」
策伝が、『醒睡笑』で説いた「語り」の真髄は、仏教の説法の方法論であり、古典落語のセオリーでもある。
釈先生によれば、落語に限らず、日本の伝統芸能の特徴のひとつに「一座建立」という概念があるという。
話し手と聴き手が一体化すること。話す側の技巧だけでなく、場を構成する要素として聞く側のイマジネーションを重視する考え方である。
聴き手の感性を必要とするのが日本の伝統芸能の特徴であった。
話し手と聴き手が一体化を目指すのは、仏法のお説教のモデルと一緒だという。
仏と人間の気持ち、また教える者と教えられる者の気持ちが一つのなること、これを「感応道交」といって、仏教が大切にしている観念である。
受け手の感性に頼るということは、話し手からの刺激は極力さけることと同義である。
聴き手は、微かなメッセージを敏感に受け止め、イマジネーションを膨らませ、笑い、涙に変えていく。それが日本の伝統芸能の本来の姿であった。
微かな刺激を受けとめられるということは、根源的な生命力の醸成にもつながる。他者の喜び、哀しみを自分のことのように感じられる豊かな感性こそが、仏教の理想のこころであると釈先生は説く。
ちなみに、落語に登場するお坊さんは、多くの場合風刺の対象である。欲がふかく、狡猾で、プライドが高く、絶えず争っていることが多い。
つまり、仏教から生まれた伝統文化には、仏教自らを笑いの種に変換してしまうほど、懐の深さがある。この高度な文化性、豊かな感性が日本の仏教の魅力でもある。
釈徹宗先生は、350年続く生家寺の住職を務める一方で、大学で宗教学を教え、NPOで認知症高齢者のグループホームも運営する。かと思えば、絶滅しつつある船場の真宗文化を織り込んだ古典落語の再構築にも挑戦する。
「巻き込まれキャンペーン」と称して、あらゆるところに顔を突っ込み、巻き込まれながら、自身も仏教フレーバーを振りまいて生きている。
「何もかも中途半端ですわ」と自分を揶揄しながらも、明るく生きる。
釈先生もまた、半僧半俗の人である。

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