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夕学レポート

2012年11月21日

・・ンなこたぁないだろう(でももしかしたら) 磯﨑憲一郎さん

photo_instructor_633.jpg芥川賞作家 磯﨑憲一郎さんは、東京のベッドタウンとして開発が進んでいた1960代の千葉県我孫子で生まれ育ち、都立上野高校では軽音楽部、早稲田大では競艇部で日々を過ごした。大手商社では鉄鋼部門に所属し、7年間の米国駐在も経験した。
中学時代に1時間半の通学時間をつぶすために北杜夫を読み耽った以外は、小説もさほどは読まなかったという。
文学青年でも、小説家を志していたわけでもない。いたって普通のサラリーマンとして30代半ばまでを生きてきた。
けっして文学のプロではない。たまたまの縁で、たまたま小説家になった人間として、というよりは、そういう人間だからこその「私的小説論」
この日の夕学は、そんな話であった。
「小説の歴史を俯瞰すると1920年代に断層がある。この時に「小説というジャンル」が完成したのではないだろうか」
磯﨑さんは、そう見ている。
例えば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』という歴史的名作(1605年)がある。
この本を読むと、もしこの時代(17世紀初頭)に映像表現という手段があったら、セルバンテスは小説ではなく、映画『ドン・キホーテ』を作ったのではないか。
磯﨑さんは、そう思えてしかたないという。
ところが、1920年代以降の作品、例えばカフカの『城』を読むと、まったく異なった感覚を持つ。
「カフカは、小説でなければ表現できないことを、小説で書こうとしている」...
なぜ、磯﨑さんは、そう思うのか。
ここのところの説明はやや難解で、正直言って的確に再現できる自信はないが、私なりの解釈はこうである。
カフカの『城』には、「これは、絶対に映像では表現できない」と確信できる描写がある。そこには、あまりに強引な論理飛躍があって視覚表現にはなじまないのだ。
前に書かれている文章を前提にして次の一文を読み進めなければならない、という「小説の構造」を逆手にとったような強引な力技を、あえて使って場面を動かしている。
こういう強引な反転展開は、1920年代以降の小説の特徴だと、磯﨑さんは言う。
「・・ンなこたぁないだろう(でももしかしたら)」と思わせるもの。
磯﨑さんは、タモリのよく使う表現を借りて、読者を惹き付ける現代小説の魅力を言い表してくれた。
この感覚は、磯﨑さんが考える「小説が存在する理由」にも通底するものだ。


小説というのは、広くて大きな現実世界の中に存する、ある一部分を抜き取って書き記すことではない。
「現代社会の病巣を鮮やかに切り取る...」というステレオタイプのキャッチコピーを小説に冠することがあるが、如何なものであろうか。
むしろ、小説の方が現実よりも大きくて、現実の外側にはみ出している。
だから、「・・ンなこたぁないだろう(でももしかしたら)」と思えるのではないか。
小説というのは、読者の世界を外側に広げてくれるもの、世界を見渡す際の視野を拡大してくれるもの。
小説の役割とは、そういうものではないだろうか。
磯﨑さんは、そう考えている。
ここで個人的な感想をはさむと、私は、本は好きだが純文学はほとんど読まない。というよりも苦手である。
それは、「現代社会の病巣を鮮やかに切り取る」のがよい小説だという先入観があるせいかもしれない。どんな病理を切り取ったのか、作者はこの表現に込めている隠れたメッセージは何か、それを上手に読み解くのが、よい読み手である。そう思っていたことに気づかされた。
読み解けない自分を認めたくないから、純文学を読むのが苦痛になった...。
そんな感じだろうか。
さて、本論に戻って、それならば、磯﨑さんは、どうやって小説を書いているのか。
驚くべきことに、いや当然の帰結かもしれないけれど、小説を書くにあたって、モチーフ設定や全体構想、登場人物のキャラ決めなどは、ほとんどしない、という。
作者があらかじめイメージしているストーリーなど、読者は先が読めてしまうものだから。
作者が、どうなるかわからずに書いているからこそ、読者は惹き付けられる。
「・・ンなこたぁないだろう(でももしかしたら)」と思ってもらえる。
例えば、磯﨑氏の最新作『赤の他人の瓜二つ』の書き出しは次のようなものだ。

血の繋がっていない、赤の他人が瓜二つ。そんなのはどこにでもよくある話だ。しかしそう口にしてみたところで、それがじっさいに血の繋がりのないことを何ら保証するものでもない。

素人目にも、続きを読んでみたくなるような牽引力のある一文だと思う。
磯﨑さんは、この一文を紡ぎ出すのに、それこそ何日間もかける。そして、この一文が持つ力にひっぱられるようにして、次に何を書くかを考えていく。
自分が書いた文章の力を借りて、次を書き進んだ方がおもしろいものが書ける
「小説の原理に身を任せる」
それが、磯﨑流の小説作法である。
いま、小説は売れない。ましてや純文学は厳しい。
小説を書くことで、何かのリターンを得ようとすると長くは続けられない。
小説によって、読み手の世界を少しでも広げていきたい、そういう使命感のようなものがなければ続けることはできない。
磯﨑さんは、最後にそう締めくくった。

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