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夕学レポート

2014年10月17日

安倍首相の言う『集団的自衛権』は、 従来からある『個別的自衛権』の一部分のことだと理解しました

photo_instructor_735.jpg 「集団的自衛権」の行使容認について賛否を問われれば、私は「反対」と答える。理由は、それはいつしか日本の平和を脅かし、戦争への距離を縮めることになると、なんとはなしに感じるからだ。
 ただし、「集団的自衛権、絶対反対!」と声高に主張するだけの自信が私にはない。
 正直に言えば、集団的自衛権が何を意味するか正確に理解しているとは言い難いし、今年7月に行なわれた閣議決定が実のところどれだけの威力を持つのか、そして日本という国のありようがこの決定でどんな風に変わっていくのか、実際のところはよくわからないというのが本当のところだ。
 印象的だったのは、7月1日の閣議決定後、安倍首相が記者会見で「今回の決定により、戦争の可能性がより小さくなった」という趣旨の発言をしていたこと。集団的自衛権に反対する人々も「戦争をしない国であり続けるために」反対しているのに、推進する人々もまた、同じ目的のために全く逆の決断を行なったという事実。同じ目的を掲げつつ、正反対の主張をする両者の違いとはどこにあるのだろう?どちらの考察がより深く、より戦略的であって、より将来を見通せているのか。
 今回この講座に参加したのは、そうした疑問のひとつでも解決できればと思ってのことだ。講師は憲法学者の木村草太先生。木村先生の講演は、個人としての賛否や評価を述べるのではなく、あくまで学者の立場から、集団的自衛権を技術的に考察するというものだった。
 結論から言えば、今回の講演を聞き、私は極めて不安かつ不愉快な気持ちに陥った。集団的自衛権の解釈変更により戦争に巻き込まれるかもしれない、という不安ではない。現政権が、世に憚ることなく穴だらけの決定をしていたことを知り、そのいい加減さに呆れたのである。


 ◇
 日本国憲法では、第9条で「戦争の放棄(第1項)」と「戦力の不保持(第2項)」が定められ、武力行使は全面的に禁止されている。ただしこれまでは、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される事態」であれば、実力行使が許されると解釈されてきた。これがいわゆる「個別的自衛権」であり、憲法でも認められると解釈されてきたところである。
 翻って今回の閣議決定の内容を見てみると、集団的自衛権が認められるケースとしては「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において(中略)自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」とある。
 ・・・突っ込みどころ満載である。
 まず、「他国に対する武力攻撃が発生し」て「我が国の存立が脅かされ、国民の生命(中略)が根底から覆される明白な危険がある場合」とは、どんなケースだろう?しばし考えてみても思い浮かばないのは、私が素人だから、だけではなさそうだ。内閣法制局も、国会での質問に対する答弁で「自分はそういうケースを知らないが、(内閣が)あると言っているのだからあるのだろう」という趣旨の発言をしたという。相当にレアなケース、ということだけは間違いはなさそうだ。
 さらに、集団的自衛権が許容される場合について述べている閣議決定の記述と、憲法でも認められるとされてきた個別的自衛権に関する記述を見比べてほしい。今回の閣議決定の内容は、前段に「他国に対する武力攻撃が発生し」た場合と「個別的自衛権」の範囲を限定したに過ぎず、つまりここでいう集団的自衛権は、個別的自衛権の範囲を超えてはいないことに気づくのである。
 ◇
 なーんだ、安倍首相が言う「集団的自衛権」というのは、「個別的自衛権」の一部だったのね!大騒ぎするほどのことじゃないじゃない。振り回されて損しちゃった…と安心すればいいのかもしれないが、私はなんだか胃がムカムカとした。
 恐らく、安倍首相が実現したかった「集団的自衛権の容認」あるいは「憲法の解釈の変更」とは、このような内容ではなかったはずだ。
 ここで二つの推測が成り立つ。
 一つは、安倍首相の主張に最後まで反対した公明党や、従来、集団的自衛権の行使は憲法に違反するという解釈を示してきた内閣法制局が、閣議決定の内容を骨抜きにしたのかもしれない、という推測である。これが事実だとすれば、安倍内閣とはなんと情けない内閣だろうか。自らの主張を貫くだけの戦略もなければ信念もない。公明党やら役人やらの単なる操り人形ではないか。
 二つめの推測はさらに私を不愉快にさせる。そんなことはすべて見通したうえでの閣議決定だったのではないか、という推測だ。つまり、「閣議決定」さえできれば内容などどうでもよい、国民は内容に気づかないだろうし、決定さえしてしまえばあとはどうにでも好きに動かせる。マスコミも、閣議決定による解釈改憲を叩きはしても、内容そのものを争点にはしないだろう。憲法学者の声など小さく、影響は極めて限定的だ。そんな見通しをもとに、あえてずさんな閣議決定をしたのだとしたら?
 ◇
 政治家は「国民のため」なんて言葉をよく使うけれど、その国民は随分と舐められたものだなと思う。怒りというより正直げんなりだが、定点観測のポイントが出来たことは大きな収穫だ。
 私は今回の講義を通し、2014年7月1日の閣議決定により憲法上許容されると判断された「集団的自衛権」は、従来の「個別的自衛権」の範囲を超えるものではないと明確に理解した。安倍首相は、どれだけ自分の言葉を厳格に守るのだろう。それが私の定点観測ポイントとなる。
 これから提出される関連法案など、興味を持って見ていくことにしよう。

松田慶子
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