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夕学レポート

2014年12月24日

普遍性が宿る場所

photo_instructor_743.jpg 森田真生さんの講演を聞きながら、「普遍性」について考えた。
 普遍性。私なりにこの言葉を定義づけすれば、時間や空間を超えて通じる真理、とでもいうところか。
 小学生でこの言葉に初めて出会ったとき、なんというのだろう、深遠な気持ちになったことを覚えている(もちろん当時は「深遠」などという言葉は知らなかった)。わかるようで、わからない。でも、なにか惹かれる。うっとりと憧れてしまうような言葉の響き。「普遍」という言葉が世の中にある以上、普遍的なものがこの世界にきっと存在するに違いないという期待が、胸の中に沸き起こった瞬間だった。
 あれから二十ン年。普遍性という言葉は何度も耳にしてきたし、自分自身で使ったこともあるかもしれない。しかし、真剣に向き合ったことは恐らくないだろう。
 今回の講演を聞き、久しぶりにこの「普遍性」という言葉にカツンとぶつかった。正面からこの言葉を見つめるのは、なんだか悪くない感じがした。


“観念”と”計算”とがせめぎ合う歴史
 今回の講演テーマは「数学」。
 一言で数学といっても、歴史的には様々な流れがあるらしい。講演から私なりに理解したのは、数学には大きく分けて「観念主義・概念主義」的な数学と、「計算主義」的な数学の二つが潮流として存在するということ。そして、その二つがせめぎ合いながら発展してきたのが数学の歴史であるということだった(恐らく、本当に数学を学んだ方々はこんなざっくりとした分類はしないのだろう。全くの素人ゆえの無知をこの場ではお許しいただきたい)。
 最も古い数学は古代ギリシャに始まる。こちらは論証に重きを置く観念的な数学。計算を軽視し、図形、量、長さ、体積などで考えるのが特徴だ。
 これに対し、インドの数学は計算を重視する。後にアラビアへと伝わっていくこちらの数学は、0(ゼロ)や数字の発明と相まって高度に発展した。
 13世紀頃になると、インド・アラビア数学がヨーロッパに伝わり、性格の異なる二つの数学が混ざり合っていく。二つを融合させたのは哲学者として知られるデカルト(1596-1650)で、彼は、方程式を用いた「普遍数学」を生み出した。
 以後、数学の歴史は、高度な計算を果てしなく追求する時期と、「代数」だとか「無限」だとかといった観念的なものを追求する時期とが交互に訪れる。数学というひとつの大きな枠のなかで、具体と抽象とがせめぎ合っているかのように、私には思えた。
 数学というと、論理的で、客観的で、絶対的で、クールな学問というイメージを抱いていた私にとって、この歴史はちょっと意外だった。数学といえども一直線に発展してきたわけではないらしい。人間的ともいえる大きな揺らぎが、数学の歴史の中には存在していた。
外にある普遍性と内に眠る普遍性
 さて、現代の数学というのは、16~17世紀に西ヨーロッパで生まれた思想がベースになっている。中世西ヨーロッパといえばキリスト教世界。数学もまた、キリスト教世界の中で発展したものだ。
 キリスト教の価値観には、唯一絶対の神、あるいは人間を超越した普遍的な真理、というようなものが前提として存在する。中世西ヨーロッパにおける学問とは、こうした普遍的な真理を追求することが目的であった。
 「全体」を丸ごと追求しようとする「観念主義」と、極めて特殊な「部分」を追求しようとする「計算主義」との間で大きく揺れ動いてきた数学であるが、そのいずれのアプローチもやはり、普遍的なものを追求するために実践されてきた研究である。
 ところで、日本人にとっての数学とはなんだろう。講師の森田真生さんが多大なる影響を受けた数学者・岡潔は、1960年代に書いた著書のなかで、日本人にとっての数学をこう表現した。
 「数学の中心は『情緒』である」
 ・・・にわかには理解し難い言葉である。
 森田さんは、岡潔のこの言葉を、講演の中で次のように説明した。
 「人間には、有限から無限を想像する能力がある。有限を糸口として無限を髣髴する力がある。記号の操作を糸口にして、そこから働き出す『情緒』こそが数学だ」。
 講演が終了した後、私はこの言葉の意味について繰り返し考えていた。そして、一つの考えに行き当たった。
 私たち人間には、想像したり、思考したり、欠けている部分を補ったり、進化した形を予見する能力が、生まれながらにして備わっている。全く関連のないモノの中に共通する要素を発見したり、あるものの本質が別のものにも当てはまることに気がついたりも出来る。とりわけ日本人はその能力が高いように思う。
 恐らく、日本人にとっての普遍性とは、キリスト教世界のように人間の外側に存在するのではなく、一人ひとりの内部に静かに宿るのだ。けれど、放っておくとその存在に私たちは気が付かない。私たち日本人が内に眠る普遍性に気が付くには、小さくても確実な「糸口」が必要だ。
小さくても具体的なものが糸口になる
 政治の世界で使われる言葉には、大ざっぱなものが多い。例えば「国民的議論が足りない」というような言い回しはスルリと聞き逃しそうになるが、よく考えると何を意味しているかが不明だ。反対運動が起きたり、デモが起きたりするのが国民的議論なのか?それとも家庭内や職場で、あるいは飲み会の席で話題に挙がるようになれば国民的議論が熟したと言えるのか?新聞やテレビが騒ぎ立てれば国民的議論が起きているといえるのか。ふと立ち止まると、国民的議論って何?とわからなくなる。
 「国民の生活を守る」「明日への責任」「日本を取り戻す」・・・政治の世界に溢れるこれらの言葉は大き過ぎて、聞いた直後から跡形もなく消えていく。あたかも普遍的なことを語っているように見えて、実際は、空虚な言葉の集合体だ。これらの言葉は、私たちの普遍性を引き出す「糸口」にはならない。
 これに引き換え、スポーツ選手がごく個人的な経験を語ったり、職人が仕事へのこだわりを語ったりする言葉の中には、なぜだか強く響いてくるものがある。
 例えば、イチロー選手のこんな言葉。「汚いグラブでプレイしていたら、その練習は記憶には残りません。手入れをしたグラブで練習をしたことは、体に必ず残ります。記憶が体に残っていきます」。
 野球にまつわる具体的な経験、ごく個人的な思いを表現しているはずのこの言葉の中に、なぜだか普遍的な要素を感じ取る。野球などしたことのない私にも、そこに共通する何かを発見するのだ。
 こうした例は数多ある。個人的な経験を語っただけ、たった一人に届けるための手紙を書いただけのものが、不思議と多くの人の共感を呼ぶ。
 普遍的なことを語ろう、多くの人に受け入れられる言葉を発しようと表現を大きくしていくうちに、実体は薄れ、実感は離れ、普遍性は失われる。これは日本人特有の現象なのかもしれない。大きな言葉や概念では、一人ひとりの内部に眠る普遍性を掘り起こすことはできないのだ。
 私たちの内に眠る普遍性に気が付くには、ごく具体的な、現実的な、細かな出来事をつぶさに見つめることから始まる。目の前に見えているもの、聞こえている音に、どう心が動くか。
 岡潔の場合は、数学がフックとなった。森田さんの場合もそうだろう。無機的な数字を扱うだけのように見える数学にも、内に眠る普遍性を呼び覚ます力がある。この日の講演で、数学の向こうに世界の広がりを見た。

松田慶子
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