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夕学レポート

2015年12月15日

生活を楽しむ

photo_instructor_798.jpg美人について語ることはあっても、美そのものについて語るのは高尚で敷居が高い事だと思われているようだ。その高尚なテーマに集まった聴衆は大変真面目で、「ここ、普通は笑う所ですよ」、白洲信哉講師もいささか戸惑ったようにも見えた。もっとも聴衆も白洲正子の言葉で笑うのは不謹慎だと思ったのかもしれない。
白洲氏の講演の骨子はシンプルである。
「美は感じるものである。特に自分がどう感じるのかが大事」、「美は生活の中に取り入れて使い、味わうものであり、美術館の陳列棚に入れて眺めるものではない」、「日本人の感じる美の特徴」、この三点だ。


一つ目について白洲氏はすみれを例えにした小林秀雄の話をした。道端に花が咲いている。きれいな花だと思い、近寄ってみてそれがすみれだと知る。ところが「これはすみれだ」とわかった瞬間から、その花を「すみれ」としか見なくなり、「花そのもの」を見なくなるというのだ。これは大変示唆に富んだ話である。「名前、ラベルの危険性」であろう。名前がわかった事で、既知のそれを目の前のものに当てはめてしまうのだ。目の前の対象物は、名前の知っている(既知の)ものとは違うかもしれないのに、頭が知識を使って処理してしまう。その瞬間もはや「見ている」のではなく、「知識と経験による識別」をしているに過ぎない。「先入観に浸食されている」と言ってもいい。
「こちら中国人の林さん」と紹介されたとしよう。その時、無意識のうちに「中国人」のイメージや知識、これまで付き合ってきた中国人との経験に、左右されてはいないか。もしかすると「中国人の林さん」は日本で生まれ育ち、大学から現在までアメリカ住まいの、国籍だけ中国の人かもしれない。しかし「中国人」の名札が、そこから先の思考や観察を奪い、知ったような気にさせてしまう。さらに知識や情報が邪魔になる別の例として美術館のイヤホンガイドを挙げた。
明治から日本の美は、美術品として「眺めるもの」になってしまった。それ以前において日本の美は生活の中で「用いるもの」だったと言う。茶道具然り、縄文時代の火炎土器然り。土器については、煮炊きする器が古くから、そしてここまで発達した国は日本くらいで、日本は「焼き物大国」だと主張する。素敵な発見だ。生活の役に立ち、美しくするもの、それこそが日本における美のあり方であったのに、明治時代の美術館の登場は美を生活から切り離してしまった。切り離されて陳列棚に鎮座まします焼き物を指して「終身刑を受けている」との白洲正子の言葉を引用し、その境遇を憐れむ。
「そんな立派な品物なんて買えないから」などと言う話ではない。白洲氏は自身が古美術好きなため、それを例に挙げているが、要は慈しむような美しいものを日常生活に用いているかということであろう。これが主張の二つ目だ。高麗茶碗も利休の時代は現代アートであった。何も古いものばかりがありがたいわけではない。
一方で日本には、いかにも年月を経てきた「枯れ」や「朽ち」を美ととらえる、根来塗の下塗りの色が出ることを「古色が出た」と味わうような、そうした独自の感性が脈々と続いていることを指摘し、それは日本が他国のような支配民族や王朝の切れ間のない、積み重なりのある、歴史の重層感のある国だからととらえた。今ではボロボロになった古代布を掛け軸の表具に用いて、古代からのバトンを受け継ぐような美意識を持つ国だ。白洲氏は飲み続けているがゆえにお気に入りの酒器についてしまったシミを、また酒器表面のへこみや出っ張りを、味わいの一つとして愛でている。
それでは、これだけグローバルになった現在、「日本人の感じる美」に変化はないのだろうか。これはむしろ心配は無用のようで、日本人は良いと思ったら何でも取り入れ、自分のものにしてしまう柔軟性を強く持つ国だと言う。確かに美に限らず、胃袋も柔軟だ。日本ほど世界各地の料理を食べている国はあるだろうか。外国人の友人の多くは異国料理を外で食べても、自宅では自国料理以外は作らない人が多い。
白洲氏は言う、日本には酒の種類によって酒器を変えて味わいの違いを楽しむ文化がある。生活を楽しむ、美のある生活、潤いと余韻のある生活。これこそ世界に発信すべき文化である。フランス人は「獺祭」をワイングラスで飲んでいる。ここに日本酒と共に様々な酒器とそれによって変わる味わいを楽しむ文化も一緒に輸出すべきだと。状況が目に浮かぶだけに大変納得のいく話である。以前、日本企業の海外進出支援をしていた時に(私は現地に行かなかったが)あるイベントで日本酒を振る舞うことがあった。その時使用していたのは紙コップかプラスチックのコップだったはずだ。もし日本酒と様々な酒器と、白洲氏の言うように味わいの違いを楽しむ文化も一緒に紹介していたら、日本酒単体の売り上げ以上の、そのイベント限りではない、継続的な日本製品と日本文化に対する関心へとつながる可能性はあっただろう。そうした着眼点を日頃から持つためには何よりも自分自身が美のある生活、潤いと余韻のある生活を楽しまなければならない。何もそれは高価である必要はないだろう。
陶磁器の薄い縁に唇をつけお茶を啜るそのひと時、香りと味は最も良いような気がする。保温機能のあるステンレス製のものは分厚くて口当たりがよろしくないし、第一、金属の味がいただけない。カフェでよく使う紙コップの場合は、上についたプラスチックのふたの匂いが繊細なお茶の香りを殺してしまう。それに加えてあのふたに開いた小さな口。飲みたい量が出てこない。飲む度に、量と飲み方を強制された幼児扱いをされているような気になる。お茶はやはり陶磁器、それも適度に薄い茶碗で飲まないと駄目だ。耐熱性のグラスなら紅茶と中国茶(の一部)は良いけれど、日本茶はおいしくない。そして茶碗の柄は日本製に限る。外国製のものはどんなに高価なブランドでも柄の配置から何から(仮に良いデザインだと思っていても)、毎日使うものとしてはどうもしっくりこない。私の「茶器へのこだわり」はせいぜいこの程度のものだが、それでもまあ自分なりの基準である。質疑応答の時間に、ここへ説明(理論)を求めてしまうような質問をしたが、答えは「何よりもまずは楽しむこと。」
やはり最後はこれである。

太田美行

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