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夕学レポート

2016年01月29日

「能は社会的資源である」 能楽師 安田登さん

photo_instructor_803.jpg能は長く続いている。
世阿弥によって完成したとされているのが650年前。能の源流のひとつである神依りの神事にいたっては、文字より古い歴史があるであろう。
能はつまらないと思われている。
それが証拠に、一番良い場面に辿り着く前に、観客の7割は寝てしまう。
つまらないのに、長く続いている。そこに能の本質がある。
いずれも能楽師安田登さんの言葉である。
高校教師をしていた25歳の時に能に出会い、能楽師になった安田登氏は、能の世界に両足を置きつつも、能をよく知らない人々の素朴な疑問を理解できる立場にある。いわば両方の世界を行きつ戻りつする人である。
二つの世界を行き来できる多義性を「あわい」という。
「あわい」は、能の世界観の特徴でもあり、かつての日本人が持っていた精神性・身体性の特性でもあるようだ。安田さんの生き方は、能そのものかもしれない。
能を現代に「役立つもの」として伝える。
明言はしないが、それが安田さんの使命感なのではないだろうか。
「能は社会的資源である」
安田さんの盟友として、共に本日の夕学の舞台に立たれた笛方の槻宅(つきたく)聡氏の言葉である。
例えば、石油という資源は、原油のままでは人間の役に立たない。精製されてガソリン・灯油などの石油製品になってはじめて役に立つ。
同じように、能は、そのままでは役にたたない。しかし、何かの工夫を加えることで、とてつもなく社会に役に立つものになる。
役に立たない(と思われている)能を、現代人にとって役にたつものとして伝える。
安田さんの使命は、このように言い換えることができるかもしれない。


能は、650年前に完成したと先述したが、江戸期には「武士のための芸能」として250年続いた。特異な歴史である。
能は、「見在能」と「夢幻能」の二種類に大別できる。見在能は演劇に近い。夢幻能は、我々が思い描く能らしい能である。
安田さんは、「定家」という演目を例にとり、夢幻能のマザーモデル(母型)を説明してくれた。
現実の世界の人(多くの場合旅人や僧侶)が、あの世(夢幻)とこの世(現実)を行きつ戻りつしながら、夢幻の世界にいる主人公(幽霊、神、精霊)と出会い、本当の姿を見つけ出す姿を描く。それが夢幻能のマザーモデル(母型)であるようだ。
安田さんは、「ワキ方」を専門とする。ワキは脇役を意味しない。「分(わ)く」を語源とし 夢幻と現実の両世界の橋渡しをする役割である。 両世界を行き来できる多義的存在と言ってよいだろう。
槻宅さんが務める笛方は、「囃子」と呼ばれる。 囃子は音楽ではない。「生やす」を語源とし、何かを現出させる機能をもつ。 空気を切り裂くような笛の鋭い音響は、夢幻と現実の両世界を隔てる「見えない膜」を打ち破る呪術音だという。
囃子の音を合図に、ワキ方はこの世からあの世へと移動し、あの世の主人公はこの世に姿を現す。
能が社会的資源だとすれば、いったい何に役立つのだろうか。
「失われてしまった日本人の身体性を取り戻す」こと。
それが、能が、現代社会に役に立つ意味であろう。
身体性は、近代になって失われてしまった日本人ならではの特性、日本人らしさの特徴でもある。
安田さんによれば、日本人は近代になって多くの身体性を失ってしまったという。
肩こりの悩みは、夏目漱石が書くまで日本にはなかった。
深呼吸といえば、近世まで「吐いてから吸う」もので「吸って吐いて」ではなかった。
膝といえば、膝頭を指すのではなく、太もも全体を表現する曖昧な言葉であった。
いずれも、失われてしまった日本人の身体性の例として安田さんが紹介してくれたものだ。
能の所作には、失われた身体性を取り戻す効用があるという。
例えば、能の歩き方=「すり足」
すり足は、大腰筋を活性化する。鍛えるのではなく、活き活きと働かせることだという。大腰筋はスポーツと健康の観点から、いま注目されている深層筋のひとつだ。
能楽師には高齢の方も多い。多くの人は健康管理もエクササイズトレーニングもやらない。にもかかわらず元気で舞台を務められるのは、能を演じることで、常に大腰筋を活性化しているからだと安田さんは言う。江戸期の武士に肩こりがなかったのは、すり足歩行を常態とすることで身体が活性化されていたのではないか、というのが安田さんの読みである。
能の発声(謡)は、横隔膜を激しく打つ感覚で「腹から音をだす」ことに特徴がある。「ハッ」という発声呼吸法に近い。
声は「越え」を語源とし、何かの状況を越えていく転換の力を意味したのではないか。織田信長が、桶狭間の戦いの前に「敦盛」を舞ったとされるのは、「腹から音をだす」ことで、ため込んだストレスを打ち返し、状況を一気に転換しようとしたのではないか。安田さんはそういう。
こうした例を聞くだけでも、武士が能を嗜みとした理由がわかるような気がする。能は武家社会の社会的資本として「役にたった」のであろう。
つまらないのに、長くつづく。そこに能の本質がある。
世阿弥は「能は継ぐをもって継ぐ」とすると喝破したという。おもしろいから、価値があるから継ぐのではない。継がねばならないから継ぐ。だから能は650年続いた。
翻っていま、武士はもういない。
「継ぐをもって継ぐ」だけでは、能は「役に立つ」ことを忘れ去られてしまう。
ビジネスパーソンが現代の武士だとすれば、安田さんは、能が「役に立つ」ことを我々に教えてくれていることになる。
能の世界と能を知らない人の世界。二つの世界を行き来する「あわい」的な存在としての安田さん。
(慶應MCC 城取一成)

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