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夕学レポート

2016年02月09日

川村 隆 「ラストマンの生き方」

川村 隆
株式会社日立製作所 相談役
講演日時:2015年10月2日(金)

川村 隆

連結の最終損益は787,337,000,000円の赤字。
製造業史上最悪、いまだ破られない不名誉な日本記録を日立製作所が計上したのは、リーマンショックが世界を直撃した2008年度のことだった。
沈みゆく巨艦は、危機に立ち向かうトップを必要としていた。

「社長として、戻ってきてくれないか」

子会社の会長に転出していた川村隆氏に白羽の矢が立ったのは2009年3月。日立本体で副社長まで務め上げ、既に引退も意識し始めていた氏は、思いもかけない形で日立再生の陣頭指揮を執ることになった。69歳のことだ。

もちろん川村氏とて、この懇請に即諾で応えられたわけではない。
売上高9兆7千億円、従業員33万人。日立製作所および連結1000社から成る日立グループの経営の舵を取るのは、平時であっても並大抵のことではない。ましてや7000億円を超える巨額の赤字が見込まれる非常事態。その困難さは想像して余りある。
その時にも、しかし、川村氏の念頭にはひとつの言葉があった。

「ラストマン」

若い時に先輩から教えられたこの言葉と、十年前のある体験が、川村氏の背中を押した。

いちど決心してしまえば、川村氏の行動は速かった。4月の就任を待たず、3月中に、各部門を統括する副社長5名を集め、こう宣言した。

  • 経営改革の大枠は、自分たち6人で、7月までの100日間で決定する
  • 当面は自分が会長も兼務し、最終的な意思決定者を一人に集約する
  • 構造改革と成長戦略を同時並行で進める

徹底的なトップダウン。しかし、その断行によって川村氏は、日立の経営に最も必要なものを手に入れた。それは「スピード」であった。

グループの再浮上のためには、不採算部門や将来性のない部門を早急に切って、成長事業に資源を集中させる必要がある。しかし放っておけば、切られる側は必ず抵抗勢力化する。そうなる前に勝負をつける、それが「100日間」の意味でもあった。

その「100日プラン」で決まった項目には、例えば次のようなものがある。

  • 社会イノベーション事業に集中する、という大方針
  • テレビ事業からの撤退、オートモティブ事業の存続
  • 上場し半ば独立していた稼げる子会社5社を、完全子会社化

いずれも、大勢で議論していてはまとまらない、大きな方針変更である。
そして少人数であっても、いや少人数だからこそ、それぞれの決定には大変な決心が要ったはずだ。撤退事業・存続事業の選定ひとつとっても、十数年先まで見据えた判断が求められる。
しかし6人は、徹底した議論の上、最後は決め、決めたことを断行した。

大枠を決めても、経営改革の実現には、それを実行する社員の意識改革が欠かせない。そのため川村氏は、世界中に散らばる事業所に自ら出向き、社員と直接向き合う百人規模のタウンホールミーティングをおこなった。
「正しく稼ぐことに価値がある」「赤字の会社は社会にぶら下がっているだけ」。そのような思いを、「会社は何のためにあるのか」を問う討論を通じて、伝えて回った。その回数は百回近くに及び、1万人弱と対話したが、それでも全社員の3%に過ぎない。補完的に、メールやイントラネット、そしてマスコミ露出の機会も活用しながら、全体最適のための痛みを伴う改革の必要性を繰り返し説き、経営トップと社員のベクトルを合わせて行った。

しかし、いくら言葉を重ねても、最後に説得力を持つのは数字であった。
改革初年の2009年度に赤字幅は1069億円に縮小。翌2010年度には2388億円と、過去最高の当期純利益をマークした。1年目、2年目で結果が出たことで、社員も改革に本心から納得していくようになった。

これだけの経営再建を成し遂げた川村氏だが、なお「経営改革は道半ば」という。なぜ、と問えば、「まだまだ世界に伍して行けていない」という答えが返ってくる。

すでに日立は、売上高も社員構成も、国内と海外がほぼ半々というグローバル企業である。取締役会も12名中8名が社外取締役、うち4名が外国人(男女2名ずつ)という構成になっている。目下の課題は、外国人社員を経営幹部に登用する道を開くこと、という。
個別事業でも、必要なら海外に拠点を移すことにためらいはない。鉄道事業は、主たる市場である欧州のロンドンに本社を移し、トップにもイギリス人を据えた。このようなグローバル化は今後も続く、と川村氏は言った。

「世界」を語る時に、川村氏が重ねて引き合いに出したのは、ゼネラル・エレクトリック(GE)。
「日立の営業利益率はまだ一桁止まりなのに、GEは15%だ。世界標準に照らせば、せめて10%は必要だ」
「GEは平時の今、金融部門を切り離す。売上高はどっと落ちるが、将来を見据えて切るべきものは切る。それが彼らのやり方だ」
GEにひとつの理想を見ながら、世界に伍して生き残っていこうという強い意志が、川村氏の言葉の端々に漲っている。

「ラストマン」。
それは、川村氏が課長に昇進した時に、先輩から教わった言葉であるという。
課長ともなれば、その担当業務については社内を代表する立場となる。
最終的な意思決定をし、最終的に責任を取る。自分の後ろには誰もいない。
その覚悟、心構えが「ラストマン」である。
爾来、川村氏は「ラストマン」たる覚悟を胸に刻み、目前の仕事に取り組んできた。課長レベルの仕事に向き合い、部長レベルの仕事に向き合い、と経験を積み重ねた果てに、日立グループ33万人の「ラストマン」という大舞台が待っていた。

社長就任を決意するにあたり、川村氏の胸にもうひとつ去来したのが、1999年のハイジャック事件の光景である。
包丁を持った犯人によって機長が刺殺され、ジャンボ機が乗っ取られたこの便に、川村氏はたまたま乗り合わせていた。
このとき、コクピットのドアを体当たりで破り、犯人から操縦桿を奪い返して機体を墜落の危機から救った非番のパイロットがいたことを、川村氏は後の報道で知った。

日立という沈みゆく巨艦の再建を頼まれた自らの姿と、この非番のパイロット・山内純二氏の姿が重なった時、川村氏は最終的に社長就任を受諾したという。

もちろん、このような大舞台は、誰にでも待っているわけではないだろう。
しかし、小さな舞台で「ラストマン」の覚悟を持つ経験を積み重ねていたからこそ、川村氏は、いきなりの大舞台で最高の立ち回りを見せることができた。

危機はいつ起こるかわからない。起こってから備えようとしても間に合わない。「ラストマン」たる覚悟は、川村氏のように、日々、自ら鍛練するしかない。
「ラストマン」は、固有名詞でも、役職でもない。
舞台に大小はあっても、「ラストマン」自体に大小はない。
いま、目の前の小さなことに、全責任を負う覚悟で臨むこと。
「ラストマン」とは、そのような、ひとつの心の在り方であった。

(白澤健志)

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