KEIO MCC

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夕学レポート

2016年06月02日

「異」を以て貴しとなす! 山岸俊男先生

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「贈る言葉」

私がまだ小学生の頃、テレビから流れてきた「贈る言葉」という歌を聞き、なんといい歌詞なんだろうと子どもながらに胸打たれたことがある。以来その言葉は、私が生きていくうえでの一つの指針になっている、と言っても過言ではない。
子ども時代の私の心を射抜いたその言葉とは「信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがいい」というあのフレーズ。
今回の山岸俊男先生の講座「安心社会から信頼社会へ」に参加し、私は、なぜ「人を信じて傷つくほうがいい」のか、その理屈をはじめて聞いたように思う。さらに、個人の心の持ちようではなく、日本の社会のありようが「信じられぬと嘆く」人々を大勢つくり出しているということにも気付かされることとなった。

信頼する人はだまされやすい?

「人を見たら泥棒だと思え」と「渡る世間に鬼はない」という、相反する二つのことわざ。先生が実施した調査によると、両者のうちで現実をよりよく反映しているのはどちらかという問いに対し、人を疑ってかかれという意味の「人を見たら…」を支持した人(=「低信頼者」)は、「渡る世間に…」を支持する人(=「高信頼者」)よりもかなり多かったという。さらに、高信頼者は他人からだまされやすく、また世の中で成功する可能性が低いと思っている人が、圧倒的多数を占めたそうだ。
しかしこれに続く実験では、高信頼者のほうが、低信頼者よりも本物の笑顔と作り笑いとを区別する能力が高いことがわかった。つまり、高信頼者のほうが人のことをよく観察し、見抜く能力があるというのだ。
先生の説明はこうだ。高信頼者は無条件に誰しもを信頼するわけではない。他人を見抜く能力が自身にあるゆえに、最初から泥棒と決めつける必要がない、というのだ。
先生はこれらの結果について、「集団主義」的傾向が強い日本と、「個人主義」的傾向の強いアメリカとの違いなどから説明された。
周りとの調和、同調を好む日本人と、自己主張が強いアメリカ人とを比較すると、他者への信頼が高いのは意外にもアメリカ人のほうだという実験結果が出たこと。これらは文化とか国民性の違いから説明されることが多いが、実は社会の作り方の違いから生じていること。アメリカは「信頼」をベースに置いた社会であるのに対し、これまでの日本は「安心」をベースにしてきたこと、などだ。

「信頼」と「安心」

「信頼」とは、相手がいい人だと思う(相手の人間性)、あるいは相手が自分に好意を持っている(相手との関係性)、といった理由から相手の心を信じること。相手を信じて裏切られれば傷つくが、信頼が報われれば喜びがある。「信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つくほうがいい」のは、人を信じることで自分が傷つくリスクもあるが、報われたときに得られる報酬(喜び)はとても大きいから、ということになる。信頼することは、リスクを取ること。そのリスクを取らず信じられないとシャッターを下ろせば、傷つくこともない代わりに失うものも大きいのだ。
一方の「安心」とは、自分を裏切ると相手自身が損をする、だから相手は自分を裏切らないはず、という理由で信じること。担保があるから安心できる、と言い換えてもいい。担保があれば、相手が信頼できる人間かどうかを考える必要はなくなるという訳だ。
日本が長い時間をかけて作ってきたのは、「信頼」ではなく「安心」をベースにした社会だと先生はいう。それは、閉鎖的で固定的な人間関係が長きにわたり維持される社会の中で生まれる関係性だ。好ましくない人間は排除される。出る杭は打たれる。同調を強要される。はみ出した行動をとった個人は集団からつまはじきにされ、バカを見る。
だから、個人は集団を裏切らないはずだという「安心」が生まれる。裏切った奴はバカを見るぞ、というプレッシャー。プレッシャーどころか、裏切ると損をするように社会が作られてきたのだ。
そこでは構成員一人一人の個性は問われない。どんな人間だろうと集団を裏切ることはないのだ。なぜなら裏切った本人が不利益を被るから。そんなバカなことをする人間はいないはずだから。
そのような社会にあっては、信頼に足る人間かどうか、個人が個人を見極める必要がなくなる。のっぺらぼうの顔をした人間の集団のようなイメージが頭に浮かぶ。
・・・とまあ、先生の説明を私なりに解釈するとこういうことだ。
集団主義的傾向の強い日本人は、他者への信頼が低くなった。なぜなら個人が個人を見極める必要がなかったから。必要がないゆえに他者を見極める能力も低く、最初からシャッターを閉ざすように人を信じることをしなくなった。
先生のお話を伺いながら、本当にそうかな?とちょっと立ち止まって考えてみたくもなのだが、まあ思い当たる節がないでもない。日本における集団には、そういう側面は確かにある。きっと多くの人が同じように感じるのではなかろうか。

自己表現をすべし

ただし、現在は日本も安心社会から信頼社会へと移行しつつある、というのが先生の見方だ。雇用が流動化し、人材が国内外に移動する時代なのだから、確かにそうだろう。
そこでは、安心社会でつくられてきた見えない約束は通用しなくなる。裏切っても別の集団に入ることが容易だし、そもそも集団の閉鎖性がかなり崩れてきている。そうなると、相手が信頼に足る人間であるかどうか、個人が個人を見極める必要が生じるというのだ。
では、来たるべき信頼社会ではどういう行動をとればいいか。
先生は、「自分の内面を表現し、また他人の内面を理解する社会的知性を身につけ、最初から『人を見たら泥棒と思え』と決めつけないという意味での一般的信頼が必要とされる」とおっしゃって講座を締めくくった。
まわりの目を気にせず、集団のために個を殺さず、自分の内面を臆せずに表現すること。そして、相手の内面を理解しようと努めること。信頼社会においては、個々人の積極性、開放性が求められる。そうした努力を個々人はしたほうがいい。
ただ、先生のお話に納得しつつも、どこか腑に落ちない感情が沸いたのも正直なところだ。アメリカ型に移行すればいいということか。日本よりアメリカの社会のほうがいいと先生は言っているのか。安心社会のいいところはないのか。それで失うものはないのか。この辺りは恐らく、先生の著作を読むなどすれば理解が深まるのだろうと思う。先生のお話される内容を90分の講座でというのは、いかにも短い。私の説明もかなり端折っているので、ご興味のある方はぜひ読まれたい。

異を以て尊しとしよう!

聖徳太子は偉大だ。1400年以上たった今も「和を以て貴しとなす」という言葉がこうも生き続けているのだから。この言葉、私は結構好きだ。私もまた、調和は尊いなあ…と思ってしまう典型的な日本人だ。
ただ、こうも思う。聖徳太子の言った「和」とは、「同」ではないだろう。「『同』を以て貴しとなす」と置き換えてみるとかなり気持ちが悪い。みなが同じであることが尊いなんて、かの聖徳太子は言わなかったはず。
多分、多くの日本人は、自分とは異なる人間と調和するのが苦手なのだろうと思う。「和して同ぜず」という言葉もあるが、実際は「和」イコール「同じであること」と無意識に思ってしまう人が多いのだ。無論、私も含めてだ。
みなが同じであれば争いもないし、一致団結、みんなハッピー。全会一致の意思決定はなんと美しい・・・こういう集団のありようはやはり息苦しい。真の「和を以て貴しとなす」に近づくための一歩として私が提案したいのは、逆説的ではあるが、まずは「『異』を以て貴しとしよう」ということ。
まず、周りと同じであることをやめる。自らの独自性を追い求め、他の人がそれぞれ違うことを歓迎する。みんなと同じなんて気持ち悪い。全員が同じってかなり怖い。そんな感覚が普通になればいい。
そのためには、やはり先生がおっしゃるように、臆さずに自分を表現することかなと思う。怖がらず自分の内面を言葉にすること。あるいは言葉以外の方法でもいいから表現すること。さらけ出すこと。そして、同じように自分の内面を表現する他人を尊重すること。認めて、好きになること。そして、調和すること。
先生がおっしゃる「信頼社会」がそういうことを意味するのなら、私は強く共感するのである。

松田 慶子

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