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夕学レポート

2016年07月22日

モヤモヤと対峙する 佐伯啓思先生

佐伯啓思 佐伯啓思先生は今回の講演で、第一に「グローバル資本主義は限界に来ている」という話をされ、第二に「それにも関わらず資本主義のベースにある『効率主義』『成長主義』というアメリカ的イデオロギーがいかに強固か」という話をされ、最後のまとめとして「資本主義に変わる社会像とはいかなるものか」という話をされた。私は、第一の話には深く納得し(納得度90%)、第二の話はそうかもしれないと考え(納得度60%)、最後の話はなんだかモヤっとした印象(納得度30%)を持った。
 しかし、講演から時間が経つほどに、最後のモヤッとした印象というのが極めて正しい感想の持ち方なのではないかと考えるようになった。佐伯先生もまた、モヤっとしながら、資本主義に変わる社会像を模索されているのではないかと思うのだ。
 以下、今回の講演をダイジェストしながら、私自身の感想を述べていきたい。


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1.グローバル資本主義の限界
イギリスのEU離脱が話題になった。多くの専門家はイギリスが間違った選択をしたと指摘したが、自分(=佐伯先生)は必ずしもそうとは思わない。それよりも、EUそのものが抱える矛盾のほうがはるかに大きな問題だ。
EUの矛盾とは、経済は統合しても、政治は統合していないということ。通貨は統一され金融市場は一つになったが、各国はそれぞれに主権を持つ国家。EUとは、非常に中途半端なものなのだ。
経済が統合されれば資本は利益の上がりやすい場所にすぐに移動するが、人の移動はそれほど早くない。結果として格差が生まれ、政治不満が高まる。ところが、経済はEUの枠組みの中で動いているために各国の政府は有効な金融政策をとることができない。今回のイギリスの離脱問題は、この枠組みから抜けようとしたものと捉えられる。政治と経済の範囲を同じにしたいという要求の表れだ。
実はこれ、EUだけの問題ではない。グローバル経済に取り込まれている各国も同じ問題を抱えていて、ヨーロッパは世界の縮図とも言える。アメリカ大統領候補のトランプ氏は、アメリカをグローバル経済から離脱させようとしているのだ。
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 この話はストンと腑に落ちた。93年にEUが誕生した際、夢のような壮大な社会実験にワクワクするのと同時に、それぞれに政府が存在するのに本当にうまくいくのだろうかと考えたものだった。もしアジアで同じことをやろうとしても、例えば日本と韓国と中国とが通貨を統一するなんて絶対にうまくいきっこないと容易に想像できた。
 でもまあヨーロッパはほとんどの国が地続きだし、長い歴史もあり、文化も共通していて(よく知らないが)、まあこちらとは事情が違うのだろうなと曖昧に納得した気分になった。彼らは民度が高いんだろうなどと、憧れのような感情さえ抱いた。EUを誕生させたことそのものは、賞賛に値する歴史的な出来事なのだろう。
 しかし、佐伯先生のおっしゃるように、政治と経済が分離していては無理が生じるはずだ。イギリスの離脱は、EUのほころびの出始めかもしれない。
そしてこれは、EUだけでなく、実はグローバル経済にどっぷりと浸かっている国々の状況も似たようなものなのだと先生は言う。グローバル経済もまた、ほころびが出てくるのだろうか。いやもう出始めているのだろうか。
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日本ではなぜ、90年代以降の経済が低迷したか。原因は3つ。
1つめは、人口減少・高齢化社会の到来によりマーケットが拡大しなくなったこと。2つめは、グローバリズム。グローバル経済は最初こそ先進国に有利に働くが、やがて途上国の技術力や労働力が上がってくると途上国と先進国との競争となり、いずれは先進国が不利になる。
3つめは、特に我が国の場合だが、構造改革を行ったこと。構造改革の根本的な考え方は市場競争をすればするほど生産性が上がり成長できるというものだが、その前提には、需要はいくらでも伸びるとの認識があった。しかし、人口減少や高齢化によりマーケットが拡大せず、グローバリズムにより雇用が不安定になった日本では、需要が伸びなかった。需要が伸びない中で供給サイドの効率化だけを進めた結果、構造改革はデフレ圧力となった。
私たちはもう、「成長」を前提にはできないのではないか。マーケットは拡大しない。私たちは多くのモノを手にして豊かになり、これ以上多くのモノを欲しがらない。成長路線そのものが限界にきているのだ。
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 この話もよく理解できる。人口減少は止まらない。高齢化もまだまだ進む。かつて途上国と呼ばれた国の経済はどんどん発展している。日本ブランドの価値は低下。我が国の右肩上がりの経済成長などはもうないのだということは、随分と前から理解していることだ。それでもなんとか成長しよう旗を振るよりも、私たちは別の何かを目指す方がいいのでは、というようなことは、私もよく考える。きっと同じことを考える人が大勢いるはずだ。
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2.どうしてわれわれは「効率主義」「成長主義」から抜け出すことができないか。
(佐伯先生が経済学を学んだ)70年代の頃は、まだいろいろな経済学があった。マルクス経済学も健在だったし、ケインズ経済学もあった。当時、アメリカの市場競争理論が全面的に正しいと思っている人はいなかった。
ところが、気がつけば市場経済理論が経済学の中心になっていた。なぜか。 この理論は数学で立証されたからだ。そのために普遍性を持ち世界に広まった。
市場経済理論とは、「一人一人の人間が合理的に行動し、自由な競争市場をつくれば、最大の効率性を達成する」というもの。この命題は実は、「個人主義」「合理主義」「競争主義」「効率主義」「成長主義」が前提となっているが、実はこれらはすべて価値観であり、アメリカ的なイデオロギーがベースにある。これらの価値観は絶対的なものではない。
経済成長より大事なものがあるのではないか、という問いがあっていい。もう成長しなくていい、ゆったりとした社会をつくりたいというビジョンがあってもいい。経済は本来は手段であり、どういう社会を、生活をつくりたいかというビジョンを実現するために使われるもの。それがいつしか自己目的化し、もっと効率的に、もっと合理的に、常に成長を、と考えられるようになってしまった。本当に何が大事かを、私たちは真剣に考えるべきだ。
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 非効率であるより効率的なほうがいい。非合理的であるよりは合理的なほうがいい。停滞するよりは成長するほうがいい。私も、当然のこととしてそう考えている節がある。私もまた、アメリカ的イデオロギーに染まった人間ということか。
 この部分の先生の話に対して私の納得度が60%なのは、「市場競争理論が圧倒的な力を持ったのは、数学で証明されたからだ」という説明にどこか違和感を持ったからだ。高度な数学で証明されたからこの理論が強固なのだろうか?
 非効率より効率的なほうがいいでしょと言われれば、もちろんそうだと答えるだろう。けれど、日常では非効率なことを実はたくさんやっている。理由はその時々でいろいろで、ゆっくり作業することで心を落ち着かせたいときもあれば、サボりたい時もある。非効率とされる方法のほうが単に好きだという場合もある。
 私たちは常に効率的に動くわけではないのだけれど、だからと言って「効率的であること」を否定はしない。同じことをするなら効率的であるほうがいいに決まっている。
 効率的なほうがいい、というのは簡単。だけど常に効率的な方法が選択されるわけではない、人間はそれほど合理的な生き物ではない、ということを理論立てて説明するのは難しい。単純明快な理屈に対し、反論する言葉はいかにも弱い。弱いけれど、そこに真実が含まれる場合は往々にしてあるように思う。
 昔々の日本ならば、言い伝えだとか伝統的な習慣だとかタブーの中に、単純明快な理屈では言い表せない知恵等々が受け継がれてきたのだろうか。一方の、長い歴史を持たないアメリカでは理屈の明快さが好まれたのかもしれない。そのアメリカが経済で覇者となった結果、世界は途端にアメリカ的イデオロギーに染まってしまった。わかりにくい、理屈では言い表せないものは、単純明快な理屈の前で力を失っていった。私の頭の中では、市場競争理論が圧倒的な力をつけていくプロセスがそんな風に想像されるのだ。
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3.「社会像」の大転換は可能か?
成長主義を脱したあとの社会像は、70年代のはじめにベストセラーとなった著書、ローマクラブの「成長の限界」、シューマッハの「スモールイズビューティフル」、ダニエルベルの「脱工業社会の到来」などにヒントがありそうだ。当時は読んでも響かなかったが、今読み返すとたくさんの気づきがある。
グローバリズムをいきなりひっくり返すことなどできない。身近なところから変えていくこと。例えば、地方の暮らしには都会に比べいいものがたくさん残っている。そういうところから転換ができるのではないか。
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 この辺りになると、佐伯先生の言葉はなんとなく弱々しく響く。私の納得度は30%。グローバリズムに対し、身近なところから変えていこうだなんてスケールが小さ過ぎはしないか?圧倒的に大きな力を持つグローバル経済に対する、ささやか過ぎる抵抗。無力感すら感じなくもない。
 おっしゃる意味はわかる。わかるけれど、もしかしたら佐伯先生なら、成長主義やグローバリズムに対抗し得るだけの新しい社会像を提示してくれるのではないか?そんなことを私は恐らく無意識に期待していたのだろう。なんともモヤモヤした思いを抱きながら、私はこの日、講演会場を後にした。
 けれど講演の翌日、佐伯先生がおっしゃる通りなのかもしれないと思うようになった。グローバリズムと同じ力を持つだけのわかりやすい説明を求めること自体が、これまでのイデオロギーの中に生きている証左なのだろうと。これまでのイデオロギーから脱却していくには、私たちは、わかりにくいことをわかりにくいままに受け入れること、理屈では簡単に説明できないことが即間違っているということではないと理解することが必要なのだろうと。
 まずは身近なところから。例えば、自分で野菜を育ててみるとか。買ってきたほうがはるかに早く、手間もかからず、価格だって安いだろう。けれど、自分が食べるものを自分で育てるという満足感。それがやがては、日本の経済が破綻しても、世界経済が大混乱に陥っても、明日食べるのに困ることはないという安心につながるのかもしれない。
 そんなささやかなところから次の社会像が徐々に見えてくる気がし始めた。

松田慶子

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