KEIO MCC

慶應丸の内シティキャンパス慶應MCCは慶應義塾の社会人教育機関です

2011年11月08日

「自分らしく、「今ここに生きる」を学ぶ」作田 稔

プロフィール

1947年生まれ。組織能力研究所代表、キャリア・カウンセラー。
技術系出身。画像情報事業を柱とする企業の生産技術研究、事業企画を経て、30代半ばに技術者人事部門の責任者に着任。1989年「若手キャリア開発プログラム」の開発以降、キャリアの自己選択、自己決定、組織と個人の共生、社会の支援の在り方をライフ・テーマとして取組んでいる。
ささやかな誇りは、2006年、Edgar.Hシャイン博士の3度目の日本招聘を実現させ、キャリア・アーキテクチャー論の恩師、金井壽宏教授、渡邊三枝子特任教授等の協力のもと、そのシンポジウムと講演録をDVD画像と書籍に集約し得たこと。
現在、企業の第一線を離れ、NPO活動を通し、より良いキャリア教育の普及と発展に微力を注ぎ、「京都伝統地場産業のイノベーションとキャリアを探るプロジェクト」を同志社大学プロジェクト科目で展開している。
三人の子供は既に独立し、高齢者介護を職とするケアマネの妻と暮らす。時折の散策と、わずかばかりの無農薬野菜作りを楽しむ。学び続けることの楽しさを味わいつつ、団塊世代の新しい生き方を模索している。

 

企業は、何を大事にすれば良いのか

 今は昔、平成不況が続き、一度目のITバブルがはじけた2002年頃、日本企業においてもM&Aを経営戦略として見直す動きが始まりかけていた。私の属した精密機器メーカーも、事業の存否をかけた選択と集中の議論が社内で高まっていた。デジタル技術革新の波は、すべての事業を確実に変えつつあった。高画質、高品質の写真分野も、印刷システム分野、医療システム分野、オフィス情報機器分野も例外ではなかった。

 当時、事業構造の転換とクイックレスポンスの社内体制づくり、それを支える人の再配置と育成が大きな課題であった。次世代経営者養成や中核技術者養成プログラムを人材開発部門で立ち上げ、経営戦略部門で、戦略的方針管理を掲げ、事業部門の構造転換に向け、これから、企業は何を大事にすれば良いのか、新たな視点を求めている時に、将に慶應MCC「キャリア・アーキテクチャー論」との出会いが生まれた。ワクワクする出会いであった。

 登壇される講師陣は、各分野を先導する方々で構成され、経営の視点からキャリアを考え直すには、またとないプログラムであった。加えて、キャリア開発やキャリア・カウンセリングを、自分自身のライフ・ワークのテーマにしたいとの想いもあり、最新の情報を得たいとの期待がその背中を押した。

企業人としての区切り

 MCCで「キャリア・アーキテクチャー論」を学んだ直後の2003年、主力事業のオフィス情報機器事業の生き残りを賭けて、国内企業としては最速と言われたスピードで、7ケ月間の極秘プロジェクトのもと、同業企業間での経営統合を果たした。シナジー効果の高い経営統合として株価は3倍に急伸した。

 しかし、経営統合による代償も大きかった。経営統合により、グローバルな組織機能・拠点の統廃合、オペレーションコストの効率化、業務革新、戦略シナリオの見直しなど、次々と新たな改革課題が実行され、かつてはノウハウ流出を恐れ、海外展開を控えた主力生産工場も一気に新興市場に移転することとなった。

 同時に、世界高シェアを占める光学デバイス事業が収益事業となる一方で、100年余の歴史を有したカメラ事業、感光材料事業が急激な市場縮減に直面し、事業ポートフォリオ上厳しい局面に晒されることとなった。

 2006年4月、歴史ある感光材料事業の撤退が決断された。経営戦略部門でホールディングカンパニーとして戦略的方針管理、間接部門機能の統合、業績評価等に携わる中、事業の効率と裏腹に、切り離した事業、失った人材の意味を考えずには居られなかった。かつて、共に考え、悩み、議論をした多くの名前をその中に見出していた。同年、歴史ある事業の撤退を機に、私自身も自からの生き方を考え直す機会とし、数年後の定年を前に、企業人としての生活に区切りをつけることにした。

 それと前後して、社会人大学院後期博士課程で技術経営(MOT)を学ぶこととした。その結果、兼ねてより活動を支援していた、地域企業の人材育成をミッションとする社団法人のとりまとめ役として着任すると共に、これも兼ねてより取組んできたキャリア・カウンセリングのNPOの理事も引き受けることとした。社会人学生を含め、3足の草鞋を履くことになった。

ささやかな誇り

 奇しくも、2006年はそのNPOの創設10周年を記念して、キャリアの先駆的研究者のお一人でもあるEdgar.Hシャイン博士を日本にお招きするプロジェクトを、その前年からスタートさせていた。私自身がその企画・調整の事務局として、多忙を極めることとなった。

 シャイン博士との接点の無い中での来日実現に当たっては、「キャリア・アーキテクチャー論」でお世話になった金井壽宏先生のお力添えを抜きにはその実現は困難であった。シャイン博士との密なコンタクトを側面から支援頂き、博士の問題意識や日本への関心の持ち方、来日の際に博士が希求されていることなど、広汎な関係者のご紹介など含め、準備に深く関わる中で、実存される一人の歴史的先達を身近にお迎えすることの意味を深く感じずにはいられなかった。
 日本講演に至る間、博士からいただいたメールの一つ一つに、その表現の中に込められた意味、一つの質問が関連する他の事柄や他者の共感への広がりなど、将に、キャリアをめぐる取組みそのものの縮図の一齣のように感じられるものであった。

 さらにこの時の来日講演・シンポジウムの取組みは、シャイン博士の基調講演「キャリア・アンカーおよび職務・役割プランニング」に加え、東京では「日本とアメリカにおけるキャリア意識の違い」をテーマに金井壽宏先生、渡邊三枝子先生、横山哲夫先生にご出講いただき、大阪では「組織と個人の関係から内的キャリアを考える」をテーマに金井壽宏先生、木村周先生、今野能志先生にご登壇いただいた。東京、大阪で参加者は1100名にのぼり200名を超えるキャンセル待ちとなった。有難いことであった。

 この時の来日講演・シンポジウムは、翌2007年に約8ケ月をかけて「時代を拓くキャリア開発とキャリア・カウンセリング-内的キャリアの意味-」完全対訳版として、貴重なシャイン博士のDVD講演録とともに記録に留める仕事の機会に恵まれた。録音テープを何度となく聞き返し、逐語に留め、一語一語の意味、その背景にある永年の実践と研究の重みを垣間見たように思う。この完成までの間も金井壽宏先生には加筆、推敲など大変なご尽力をいただくこととなった。この10年の中で、ささやかな誇りとなる貴重なチャレンジングな仕事であった。

閑話休題

 シャイン博士が来日の折、奥様とお嬢様が同行された。奥様が京都滞在の折、竜安寺を訪れ蹲(つくばい)に刻まれた「吾唯足を知る」の置物を買い忘れたとのお話しを帰国前日に伺った。翌日、急遽新幹線の車内に蹲と色紙をお届けすると言うハプニングに、博士はにこやかに、礼を述べられた姿が想い起こされる。しかしながら、最愛の奥様も2008年帰らぬ人となられたとのこと。とても穏やかで、奥様を大変大事にされていただけに、ご冥福を祈らずには居られない。

キャリアは未来のためにある

 キャリア・アーキテクチャーの広い視点からキャリアを学び、10年余を経て、キャリア開発やキャリア・カウンセリングの近傍に身を置きながら、改めて、キャリアとは何かを自問自答することも少なくない。
 経験と学習、さらに変化する状況におけるキャリアの認知に、兼ねてより関心を寄せてきた。キャリアの小さな意思決定は日々為されると同時に、日々の経験の積み重ねが、自からのキャリアの効力感にもつながっている。言わば、経験の認知のありようがキャリアには意味を持つ。それと同時に、その年齢やその状況に置かれてみないと、リアリティを持って考えられないことも、キャリアには多い。とりわけ、人生後半のキャリアに佇む今、キャリアは未来に語りかけるものとしての意味をより多く感じている。

 それと同時に、年を重ねても、キャリアの基本的な問いかけは変わらない。これからどうありたいのか。何を大事にしたいのか。今、何ができるのか。どんな役割を果たせるのか。何を他者と分かち合うことができるのか。

 本年3月の東日本大震災と福島第一原発の事故による日常性の破壊は、改めて、キャリアの本質を貫く、常ならざらぬ「無常」の中に、新たな自己を作り続けることの意味を問いかけている。
 自分自身への内省を含め、私にとってキャリアとは、自分らしく今ここに生き、そして、未来をより統合的に生きようとする意志のようにも思われる。
 サミュエル・ウルマンの詩の一節のように、曰く、「年は70であろうと16であろうと、その胸中に抱き得るものは何か」。改めて、未来の時間と可能性を、今ここに生きながら、大切にしたいと思う。

キャリアを共に学んだ、世代を超えたMCCの仲間と、10年余を経て、こうしたキャリアのリフレクションができたことに、改めて感謝をしたい。場を支え続けてくれた城取さんに感謝です。

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