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田口佳史『佐久間象山に学ぶ大転換期の生き方』

2020年02月11日

田口佳史
東洋思想研究家、株式会社イメージプラン代表取締役社長

私は、約五十年の間、ただひたすら毎日古典を読み続けてきた。
儒家思想、老荘思想が中心だが、その他仏教、禅仏教、神道などの古典である。
十年、二十年と読み進み、やがて三十年を過ぎる頃から、やっと解ってきたことがある。この世の根源が見えてきたのだ。それは、私が読んできた東洋思想の基軸を成す概念でもある。
「いのち」である。いつも「命の偉大さ」に対する畏敬、讃美があるのだ。

命に対する尊厳と言ってもよい。
命というものは、奇跡が幾重にも重なり合って始めて得られるもの。その僥倖に対する崇敬の念に貫かれているのだ。
それは、天地、万物、われわれの周りに存在する生きとし生けるものから、宇宙全体に至るまでに向けられている。
「草木国土悉皆(しっかい)成仏」
この世の一切の有情(うじょう)は、ことごとくみな成仏する。
命が命に共生し、相互に支え合って生きているのが、この世なのだと言っているのだ。
命に命が関わることが、生きている原点だ。
感動は命に出会う時に起こる。
命の喜びに優るものはない。

私は二十五歳の時に、タイ国バンコク市郊外の田園地帯の中で、水牛二頭に串刺しにされ、危うく命を失うところであった。
朝、目覚める。「生きているじゃあないか、自分は」
こんな感動は、そうない。これを毎日繰り返した。
その命を、根本にした五つもの思想哲学が、わが国日本には在るのだ。
しかも七世紀以上の長期にわたって、原点であるそのものの純粋性を失わずに蓄積され続けてきた。
「儒教・道教(老荘)・仏教・禅仏教・神道」
世界広しと雖も、こんな国は他にはない。
そしてこの五つの思想哲学は、いまも進化を続けている。
日本に蓄積したこれらの思想哲学は、まるで日本の風土の持つ醗酵文化の恩恵を受けたかのように、霊妙な薫りと風味を持った独特の思想哲学に育っていった。
世界のどこにもない、もはや発生地であるインドや中国にもない。鋭い感性と深い精神性によって洗われ、清められて、一切の余計を取り除いた究極の簡潔さ。そして、宇宙大の広がりとを持った「儒教・道教(老荘)・仏教・禅仏教・神道」になっているのだ。
そしてこれらの思想哲学を基底として成り立っているのが、わが国の伝統精神文化だ。
したがって、わが国の伝統精神文化こそが、「いのちの思想」なのである。
大自然と人間の一体化。多くの動植物との交流。これら全てがいのちといのちの対話なのだ。
これが二千年以上にわたって続けられてきた。
これが日本だ。
そうした観点から、わが国の歴史を改めて眺めてみた。
「清く美しいいのちの流れ」が、滔々と流れている。
それが日本だ。
しかし、この流れは、いまどうなっているのだろう。
清く美しいいのちの流れの川岸に暮らしてきた伝統は、いまも充分に現代日本社会に存在しているのだろうか。
私には、見えない。
どう見ても、見当たらない。
いつからこんなことになってしまったかと考えてみる。
戦後は何しろ敗戦国家だ。
これでは、如何ともしがたい。
では、その敗戦国家に至る進路は、何時どこから始まったのだろうか。
遡っていく。
明治維新まで至る。
では、その前の日本、つまり江戸期の日本はどうであったか。
清く美しいいのちの流れが、滔々と流れているではないか。
ということは、明治維新を改めて問わざるを得ない。
明治新国家の国家構想に問題はなかったのか。
これをもう一回改めて考えてみようと思った。
しかしこれは言うは易し行うは難しの大きな対象である。
私のような一介の漢文読みには荷の重い、分を弁えない課題ではないか。
しかしこれをやらずして真の“日本好き”と言えるだろうか。悪戦苦闘の日々が続いた。
そこで行き着いたのが横井小楠である。横井の国家構想に行き着いたのである。
まさに待望の日本の国の在るべき姿が、そこにはあった。
その顛末については、既に上梓した『横井小楠の人と思想』(致知出版社刊)をお読みいただきたい。

さて、明治維新は、「新しい国家体制、政治体制」にあったのであるが、その核心は「産業革命、近代科学技術」の成果にあった。
横井もその事は。承知の上であった。
横井は次のように言っている。

堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
 何ぞ富国に止まらん
何ぞ強兵に止まらん
大義を四海(世界)に布かんのみ

「西洋器械の術を尽くさば」
まさにこここそが明治維新のも一つの核心なのだ。
しかし横井の論は、そこに対する言及は薄い。
そこで登場するのが佐久間象山なのである。
象山に関しては、横井同様、伝記、研究所の類は膨大にあり、読むべき名著も多くある。地元長野、松代の研究者、郷土史家にも優れた人もあり、その研究成果には頭の下がるほどの努力的産物が多い。
いまさら、私が―との思いもあった。
しかし、佐久間象山から科学技術に対する真のアプローチの仕方、延いては、産業革命の進め方を学ぶことも実に意義深いことでなかろうかとも思った。
そこで今回は、「明治新国家の構想係」として、象山はいかなる科学技術立国を考えていたのか、に的を絞って探求し書き進めることにしたい。
というのは、現在この事は「世界的な課題」でもあるからだ。
「第四次産業革命」が猛烈な勢いで世界中を吹き荒れている。
その特長は、ある分野で完成した知見や技術が、直ぐに様々な分野で応用活用され、様々な新たな知見や技術が生み出される。こうした「複合的多分野での開発成果」が、どんどん出て来て、技術の進歩は驚異的に速く広く行き渡ってしまうのだ。

つまり人間主体でなく、「技術主導型の社会」になりがちなのである。
これは実に恐ろしいことでもある。
このまま推し進めてしまうと、技術が人間を使うようになってしまう。現にAIが上司となって部下である人間を使いだした例もある。当然の事ながら、AIには慈悲心も人情も人間性もない。いわば冷酷無比な上司なのである。そうした上司に部下である人間は虐げられかねない。
ゲノム編集や更に合成生物学は人間をつくれるレベルにまできているのだ。更に自律型兵器の進歩も加速度的に進んでいる。これら人間の生み出したものが人間に襲いかかってくる危険性もある。

そうなっては断じていけない。
そこでいまこそわれわれは、佐久間象山の「科学技術や産業革命」に対する深く広い学識と識見に学ぶべきなのである。その思いから本書佐久間象山に学ぶ大転換期の生き方』を書いた。

象山ほど、正当に、本質的に科学技術を見詰め、人間がいかに主導権をもって技術を扱うべきかを主張した人はいない。
科学技術は一部の権力者のものでもないし、専門家のものでもない。
広く一般の市民のものである。
とするならば、象山の指導を受けるべきは、一部の専門家ではない。ごくごく一般の人々なのである。
極力この事を考慮し、専門的で難解な説に陥ることなく、誰もが理解できるような平易な文章を、心掛けたいと思う。

さて、「象山」の読みの問題である。
研究者の多くは「しょうざん」と読むのが正当と主張している。しかし地元長野、松代では「ぞうざん」と呼ぶ人が断然多い。私も地元で公演の折に主催者から「ぞうざん」と言ってくれと、正されたことがあった。それ以来、私は「ぞうざん」と読んでいるが、正当性が疑われるという向きも多かろうと思うので、敢えてルビを振らない。どうしても必要な時は地元を尊重して「ぞうざん」としたい。

 

佐久間象山に学ぶ大転換期の生き方』(田口佳史著、致知出版社)の「はじめに」を著者・出版社の許可を得て掲載しました。無断転載を禁じます。

佐久間象山に学ぶ大転換期の生き方
著:田口 佳史 ; 出版社:致知出版社 ; 発行年月:2020年1月; 本体価格:2,000円(税抜)
田口佳史(たぐち・よしふみ)
田口佳史

  • 東洋思想研究家、株式会社イメージプラン代表取締役社長

1942年東京生まれ。新進の記録映画監督として活躍中、25歳の時タイ国バンコク市郊外で重傷を負い、生死の境で『老子』と出会う。奇跡的に生還し、以降中国古典思想研究四十数年。東洋倫理学、東洋リーダーシップ論の第一人者。企業、官公庁、地方自治体、教育機関など全国各地で講演講義を続け、1万名を越える社会人教育の実績がある。 1998年に老荘思想的経営論「タオ・マネジメント」を発表、米国でも英語版が発刊され、東洋思想と西洋先端技法との融合による新しい経営思想として注目される。

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