ピックアップレポート
2026年05月12日
仲道 郁代「変容」
音楽は時に、異なる時代の痛みを結びつける。
音楽が持つ変容の力は、時代を超えて人の心に働きかける。
変容をもたらすもの
疫病、災害、戦争が次々と起きる世の中にいると、これまで当り前と思っていたことの意味をあらためて考えたくなる。音楽は楽しむものだと言うが、クラシック音楽を享受するとはどういうことなのか。
ショパンの音楽は多くの人に愛されている。ショパンはポーランドの人だ。けれどショパンの時代のポーランドは他国の占領下にあった。弱冠二十歳で故郷を離れた彼は、以後二度と戻ることができなかった。異国にてワルシャワ蜂起の知らせを受けるも何もできないという苦しみの中で書かれた《革命》と呼ばれるエチュード。そこに聞こえてくるのは、今、映像で見聞きするウクライナの人々の姿に重なるショパンの心の叫びだ。その音は、強いリアリティを持って現代の私たちに訴えかけてくる。
パリの華やかな社交界で成功を収めた生活の中で、ショパンは何を考えていただろうか。ショパンの作品は、繊細とか綺麗とも形容され、その音楽はすっと耳に入ってくる。しかし、美しい音の連なりの奥底には、哀しみ、憤り、郷愁、忸怩たる想いが複雑に絡み合っているのではないだろうか。私はその想いと向き合い、音として立ち昇らせたいと思う。
クラシックのコンサートホールには静けさがある。一人一人の方が音に耳を澄ます。そこには作曲家が伝えたかった想い、情景が聴こえてくる。それは、昔の物語ではなく今の私たちに伝えられるメッセージでもある。それを味わい、心を寄せて聴く。そうしてコンサートホールから再び日常に溶け込んでゆくとき、心持ちに、景色の見え方に、何らかの変容を感じるのだと私は思う。
二つの鐘の音
春のリサイタル*でムソルグスキーの《展覧会の絵》を演奏した。《展覧会の絵》は、ラヴェル編曲のオーケストラ版の華やかな響きが親しまれている。けれども原曲はピアノ曲で、そこに聴こえるのは暗い弔いの響きだ。亡くなった友人の画家ハルトマンを悼み、「死」をどう捉えるかということが、ロシア正教の宗教的な響きとともに描かれている作品だと私は思う。
その終曲は《キエフの大きな門》だ。伽藍の鐘が鳴り響くなか、哀しみの祈りのコーラスが聴こえてくる。それは死者への裁き、昇天、復活を意味するのか。そんなことを考えながら作品に向き合っていた最中、ロシアのウクライナ侵攻が始まった。《キエフの大きな門》から聴こえる鐘の音と祈りの響きが、ウクライナの人々の悲痛な叫びと重なり、胸が締め付けられた。音楽の中に見出す感情は、社会と無縁ではないのだと、音楽から伝わるメッセージの強さが心に刺さった。
この秋*にはラフマニノフの作品を弾く。ラフマニノフの前奏曲、その中に《鐘》という曲がある。衝撃的な三つの音から始まり、さまざまな鐘の音を聴く。ロシアの人々にとって鐘の音とは、教会に通じるものであり、宗教的な心持ちをもたらすものだと聞いたことがある。ラフマニノフは、敬虔な正教徒として生きた。彼は、音楽とは何かを問われたとき、それは「心から心へ向かうもの」、「それは愛」、そして「その母は悲哀である」と語ったという。
悲哀から生まれた愛。今、私たちは、ラフマニノフの《鐘》の響きの中に何を聴くのだろう。ラフマニノフは今の私たちの心に何を伝えたいと思うのだろうか。
*2022年本エッセイ執筆当時です。
次回の「The Road to 2027 仲道郁代 ピアノ・リサイタル 音楽の哲学」は5月23日(兵庫)・5月30日(浜松)・6月6日(名古屋)・6月14日(東京)です。
仲道郁代さんの今後の活動は公式サイトのスケジュールをご参照ください。
『いつも音楽のことを考えていた』(春秋社2026年3月)より著者と出版社の許可を得て抜粋・編集しました。無断転載を禁じます。

仲道 郁代 (なかみち・いくよ)
ピアニスト
桐朋学園大学1年在学中に第51回日本音楽コンクール第1位、増沢賞を受賞。ジュネーヴ国際音楽コンクール最高位、メンデルスゾーン・コンクール第1位、エリザベート王妃国際音楽コンクール入賞。これまでに、マゼール指揮ピッツバーグ交響楽団、バイエルン放送交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ズッカーマン指揮イギリス室内管弦楽団(ECO)、フリューベック・デ・ブルゴス指揮ベルリン放送交響楽団、P.ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団など海外オーケストラとも多数共演。2005年にはウィンザー城にてイギリス室内管弦楽団主催のチャールズ皇太子夫妻臨席の「結婚祝祭コンサート」に出演。
CDはソニー・ミュージックジャパンと専属契約を結び、レコード・アカデミー賞受賞を含む「仲道郁代ベートーヴェン集成~ピアノ・ソナタ&協奏曲全集」他、「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」「シューマン:ファンタジー」「ドビュッシーの見たもの」等をリリース。著書に『ピアニストはおもしろい』(春秋社)等がある。2018年よりベートーヴェン没後200周年の2027年に向けて「仲道郁代 The Road to 2027リサイタル・シリーズ」を展開中。一般社団法人音楽がヒラク未来代表理事、一般財団法人地域創造理事、桐朋学園大学教授、大阪音楽大学特任教授。令和3年度文化庁長官表彰、ならびに文化庁芸術祭「大賞」を受賞。
オフィシャル・ホームページ
http://www.ikuyo-nakamichi.com
慶應MCC登壇プログラム
仲道郁代さんと【音楽を考えよう、探求しよう】(2024年)
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