ピックアップレポート
2026年04月14日
保田 隆明『企業価値に連動する 人的資本経営戦略 』
日本企業のありかたが株主資本主義からステークホルダー資本主義へとシフトするなかで、企業価値を高めるにはどうすればよいだろうか。一言で表せばESG経営ということになる。
結論を先取りしてしまえば、ESG経営は企業価値を高めるビッグチャンスである。もっとも、企業のあらゆる側面を厳密にESG化しようとすれば必要以上のコストが発生し、収益性が犠牲にならざるを得ない局面もあるが、中長期的には企業の営む事業はESGの方向にシフトしていくものであり、それへの対応は今後の投資になり得る。
1 収益力向上に向けて必要な事業ポートフォリオ変革
日米欧企業間でのROE (株主資本利益率)の比較を見ると、日本企業は米欧企業に比べてROEが低くなっている。ROEは構成する3要素 (1)売上高利益率 (2)総資産回転率 (3)財務レバレッジ) に分解できる。具体的には、(1)売上高利益率は売上に対してどの程度利益を稼いでいるかの指標、(2)総資産回転率は資産をいかに効率的に収益化しているか、(3)財務レバレッジは借入金をどの程度有効活用しているかの指標である。3つに分解することで、企業にとっての必要な打ち手(収益性の改善、資産効率の改善、資本効率の改善) が見えてくる。
日米欧企業で比較すると、この3要素のうち最も特徴的かつ日本企業において対応が必要なものは、(1)売上高利益率の低さである。費用削減は各社十分に行っている。問題は事業の稼ぐ力、収益性が弱いところにある。付加価値の高い事業にシフトできていないのである。
伝統的な日本企業の多くはレガシー事業を持ち続けており、これを時代に合わせて入れ替えていく必要があるが、この入れ替えが日本企業全体として十分ではないのだ。付加価値の高い次世代型事業への投資と、成長性の低くなった既存事業の縮小や撤退が必要になる。
日本企業の多くは、この30年ほど新規事業への投資をあまり積極的に行ってきておらず、また、米国や中国のようにベンチャー企業の創出にも秀でているわけではないので、いざ、新規事業をやろうとしても、社内にそれを担える人材がいない。従って、人的資本経営では、人材をいかに市場成長率が高い事業にシフトさせていくかが、真骨頂とも言える。
事業ポートフォリオを入れ替えることで持続可能な経営を実現している企業もある。M&Aや新規事業の着手など、その手法も様々だ。結果として、ROEを高めることができれば、株式市場からの評価も高まる。具体的には、ROEが8%を超えるとPBR(簿価純資産倍率)が高くなる。
そしてROEの向上には利益率の向上が必要であり、そのためには新規事業投資と収益性の低い既存事業からの撤退が必要であり、組織もそれに合わせて変革していく必要があるという流れになる。事業も社員も次世代型に整えていくのだ。これが企業にとってのゲームチェンジャーになりうる。
2 事業ポートフォリオ変革と人的資本経営
事業ポートフォリオの変革においては、新規事業創出の実現と、既存事業からの撤退や縮小、あるいは売却を通じた社内リソースの再配分が必要となる。前者はイノベーティブ人材を必要とするが、そのような高度人材はどの企業でもニーズが高いため、企業は選ばれる存在になる必要がある。高度人材が働きたいと思うような環境を整えるには、給与水準は当然のことながら、職場環境も非常に重要である。
人的資本経営のコンテクストでも、働き方改革、リスキリングなどが話題になるが、それらの対象は既存社員として語られることが多い。しかし、高度人材が働きたくなるような職場づくりが第一義的には重要であり、働き方改革やリスキリングが充実した環境を実現することの主眼を、高度人材獲得目線に置くことが極めて重要である。
もっとも、事業ポートフォリオの変革を進める上では、今後縮小あるいは撤退していく事業に従事している人員を他の事業の担当に転換していく必要があるため、その観点でのリスキリングも当然重要である。自身が変化し続けるという意識を従業員に主体的に持ってもらうような文化を醸成しておくことも重要である。
それらは、迅速に変化できる対応力(アジリティ)と、多少の困難さは乗り越えられる強さ(レジリエンス)を兼ね備えた組織づくりということになる。
アメリカのIT企業シスコシステムズは外部環境の変化に応じて、2011~21年の間に事業セグメントの中心を「ネットワーク機器」から、クラウドや5Gといった「インフラ基盤」へ大幅に入れ替えることで、売上高は微増ながら収益率を大幅に高め、時価総額も約50%増加させた。
それを可能たらしめたのは同社の組織力すなわち人的資本である。社内研修を充実させて社員のスキルアップや満足度向上に寄与したり、ダイバーシティのある組織づくりを推進したりすることで社員のウェルビーイングを高めた。結果として、世界トップクラスのESGスコアも獲得し、まさに事業ポートフォリオの入れ替えとそれに伴う人的資本経営のお手本のような、美しいストーリーである。
3 事業ポートフォリオ変革、DX、人的資本経営の一体改革:日立製作所
日本企業で参考になるのは日立製作所であろう。同社の近年の業績推移は、売上高はほぼ横ばいである一方で利益は拡大基調であり、利益率が上昇している。積極的なM&Aで新たな事業を組み込む一方、既存事業からの撤退も推し進めしたことで、その構成は大きく変わり、会社全体として高収益事業にシフトしてきている。
日立のM&Aによる事業入れ替えの変遷をみると、同社が過去10年にわたってコンスタントに事業の売却と買収を繰り返してきたことが見て取れる。
同社の事業の中身は、モノづくりを起点とした製品・システムの提供から、社会イノベーション事業にシフトし、主な市場も日本国内からグローバル市場に変化してきている。組織や人材もそれに合あわせて、課題解決型(ソリューション型)、グローバル対応、そしてデジタル対応ができるものにシフトしていく必要がある。
同社ではそれを実現するために、ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョンのある組織づくりを目指し、また、マインドセット、企業文化も成長志向なものにしていき、変化に速やかに適応できるアジリティ (Agility)ある組織にするとしている。
同社のそのような状況を受けて、株式市場からの評価も高まっており、2024年5月2日現在、同社は時価総額ベースで国内第8位にランクインしている。
日立の一連のストーリーを整理すると、モノづくり企業から脱却し社会イノベーションシステムを提供する企業に変身することを明確に定め、その軸に沿うように事業の中身を入れ替え、デジタル化を推し進め、組織構造もそれに合わせて変化させてきている。株式市場にもコンスタントに積極的に情報発信をして、双方向コミュニケーションを心掛け、株式投資家からの評価も高まっている。
人的資本経営では、組織や人材周りでの具体的施策やどのように情報開示するかにフォーカスが当たることが多いが、その土台である事業戦略と収益状況とが紐づいていないことには、腹落ちするストーリーにはならない(株式市場の評価はついてこない)ことが日立の事例からはよく理解できる。
4 一方で、ESG一本足打法はリスクが高い
シスコや日立の事例でもわかるように、M&Aは事業ポートフォリオおよび組織変革において重要な役割を果たす。ESGを軸として起業したベンチャー企業も増えつつあるため、それら企業を買収し伸ばしていく、そして組織も変えていくという手法は魅力的である。
香りのよいスキンケア、ボディケアを製造販売している Aesop というコスメティクス企業があるが、同社の包装はミニマムであるし動物実験をしていない。同社は2023年にロレアルに買収されたが、大企業の中で新規事業を立ち上げることが容易でないならば、このように買収すればよい。ベンチャー企業側も、ESGを基軸に事業を立ち上げたものの、その拡大に困っている企業が少なくない。
例えば、シューズ・アパレルメーカーの 「allbirds(オールバーズ)」は環境に配慮した素材で製品を作り、ノウハウを他社にも提供している。植物由来の代替肉を開発、製造するBeyond Meatという企業もある。
これら企業は、事業そのものがまさにESGであり、消費者に刺さる、美しいストーリーもある。両社とも株式公開(IPO)を果たし、上場当初は株価上昇で市場に好意的に迎え入れられたが、長続きしなかった。今や両社の株価はピーク時の10分の1以下になっている。ESGを基軸とする素晴らしい商品で事業化までこぎ着けたものの、その事業を大きく拡大するところまで自力でやるのは大変である。
一方、Aesop の場合、ロレアルが有する世界的販売網を活用すれば既存事業をさらに大きくすることが可能であろう。ロレアルにとっても自社の事業ポートフォリオのESG化を進めることができる。
5 投資家は「見えないもの」を見たい
今一度、なぜ人的資本経営が注目されるのかを確認しておこう。端的には、株式投資家が企業の財務諸表には現れない将来業績の先行指標を探したいと思っていた中で、無形資産が注目されるようになり、近年はその中でも人的資本がクローズアップされるようになったという構図である。財務諸表で提示されるデータのみに依拠していては、各投資家は投資戦略で差別化できない。
実際、過去のデータや先行研究からは無形資産と株価収益率や企業業績には相関があることがわかっている。たとえば、研究開発(R&D)の割合が高い企業は、その後の株価収益率や業績がよいことが以前から明らかにされている。エドマンズは従業員の社会的満足度が高い企業は株価収益率も高いことを報告した(Edmans [2011])。このように、当初は学者と投資家による株価に効く無形資産探しが行われたという流れである。
日本とアメリカにおける企業の投資状況推移(1997年を1とした場合、その後無形資産にどれほど投資されたか)をみると、研究開発費はアメリカが2倍を超えているのに対して日本は1.4倍、人件費はアメリカの2.5倍に対して日本はほぼ横ばいである。同じ期間のアメリカの堅調すぎる株価推移と日本の対照的な株価推移についてはもはや説明の必要はないであろう。
今後の時代で考えると、AI関連投資などがこのコンテクストに該当してくるが、実際、小澤ら [2023] は日本企業を対象としてAIなどの先進技術に積極的な姿勢を有する企業の企業価値や業績が、その後上昇傾向にあることを報告している。分析は、有価証券報告書の内容をテキスト分析することで行われ、人的資本経営のコンテクストでもテキスト分析をすることが最近は増えている。
他にパーパスドリブンな企業や、企業のパーパスと従業員個人のパーパスが一致している企業では、業績や株価のパフォーマンスが高いことが研究から明らかになってきている。
また先の従業員の社会的満足度の研究を行ったエドマンズの近年の研究結果によれば、パーパスドリブンな企業では新たな市場やニーズを作り出すことが可能であり、結果として利益の増大も可能であると議論している (Edmans [2011])。そういうものをすべて含めての人的資本経営を株式市場は評価対象にしているということになる。
6 まとめ
人的資本経営の興味深い点は、これまであまり接点のなかった人的資本の領域と、お金の資本の領域(すなわち、株式市場)とが密接に関連性を持ちつつあることである。
ただし、議論がいわゆる人事側の領域のみに閉じていると、せっかくの機会が無駄になってしまう。つまり、どう取り繕うか、どう情報開示するかという視点だけでは意味がない。これまで見てきたように、事業戦略、財務戦略と紐づいて初めて生きた人的資本経営となるということに留意が必要である。
『企業価値に連動する 人的資本経営戦略』(中央経済社2024年7月)を著者と出版社の許可を得て抜粋・編集・追記しました。無断転載を禁じます。
保田隆明先生の講演会・ビジネスプログラム
夕学講演会:
「財務視点で読み解く人的資本と企業価値」
4月21日(火)18:30-21:30
https://www.sekigaku.net/sg/lecturer/1363
ビジネスコアプログラム:
「コーポレートファイナンス 戦略と実践」
6月11日(木)開講・18:30-21:30 全6回
https://www.keiomcc.com/program/cft26a/

保田隆明 (ほうだ・たかあき)
慶應義塾大学総合政策学部教授
博士(商学)早稲田大学。1974年兵庫県生まれ。リーマンブラザーズ証券、UBS証券で投資銀行業務に従事した後に、SNS運営会社を起業。同社売却後、ベンチャーキャピタル、金融庁金融研究センター、小樽商科大学大学院准教授、昭和女子大学准教授、神戸大学大学院経営学研究科准教授および教授を経て、2022年4月から現職。2019年8月より2021年3月までスタンフォード大学客員研究員としてアメリカシリコンバレーに滞在し、ESGを通じた企業変革について研究。複数社の上場企業の社外取締役および監査役も兼任。
担当プログラム
コーポレートファイナンス 戦略と実践
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