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ピックアップレポート

2026年09月08日

平藤 喜久子著『いちばんわかりやすい古事記』

平藤 喜久子
國學院大學神道文化学部教授
慶應MCC agora「神話学・宗教学」講座講師


いちばんわかりやすい古事記

はじめに

 神々を主人公として、世界の成り立ちや国、王家、そして人間の起源を語る物語を、わたしたちは神話と呼んでいます。人間の歴史と神話の歴史はほぼ同じくらい長く、おそらく神話を持たなかった文化は存在しないだろうとも考えられています。

 神話は、それぞれの文化のなかで育まれ、さまざまな形で伝えられてきました。宗教の聖典として残されたものもあれば、文学作品や歴史書のなかに書きとめられたもの、あるいは文字を用いず、口承によって語りや儀礼、祭りの場で伝えられてきたものもあります。

 日本では、8世紀に天皇を中心とする政治体制が整えられていくなかで、神話は文字としてまとめられることとなりました。伝えたのは『古事記』『日本書紀』『風土記(ふどき)』といった文献です。本書が取り上げる『古事記』は、712年に成立した、日本最古の歴史書です。上・中・下の3巻から構成され、そのうち上巻は「神代(かみよ)」と呼ばれ、天地のはじまりから神々の誕生と活躍が語られています。日本の神話を考えるうえで、きわめて重要な部分といえるでしょう。中巻は、初代の神武(じんむ)天皇から応神(おうじん)天皇までを、下巻は、仁徳(にんとく)天皇から推古(すいこ)天皇までを伝えています。

 中巻以降は「人代(ひとよ)」とされ、歴代天皇の物語が記されていきますが、神話は上巻だけに限られているわけではありません。神の子孫として描かれる神武天皇の物語や、英雄ヤマトタケルの活躍など、人と神とが密接に関わり、展開する物語は中巻にも多く見られます。下巻になるとほとんど神は登場せず、人間たちによる物語になります。つまり、『古事記』は、神から人間へという流れを歴史として描いているといえるでしょう。こうした構成のなかでも、神々の物語が全体のなかで高い比重を占めており、神話と歴史とは明確に切り分けられているわけではありません。

 また、『古事記』は、「フルコトブミ」とも呼ばれてきました。「古いこと」と語り出せば、それが自分たちに関わる物語であると、聞き手にすぐに伝わる。そのような範囲で読まれることを前提として編まれた書であったと考えられます。つまり『古事記』は、同時代の人々、そして子孫たちに向けて語り継がれることを意識しているといえます。

 その姿勢は、表記のあり方にもよく表れています。『古事記』では、神名や地名、歌などを中心に、表意文字である漢字を表音文字のように用いて大和言葉の音を写すという方法がとられました。子孫たちに音とともに言葉を伝えようとする意識が、そこには感じられます。このような表記の態度は、外国でも読まれることを意識して比較的純粋な漢文を用いて記された『日本書紀』と対照的だといえるでしょう。

 本書では、『古事記』に伝えられた神話や伝説を読み解きながら、それぞれの物語に関わる土地や、神々を祀る神社にも目を向けていきます。神話は古典のなかに閉じ込められた過去の物語ではありません。神話が語られてきた場所は、今もわたしたちが歩き、訪れることのできる場所であり、神社は現代に生きる人々と神々とを結ぶ場でもあります。

 神話を知ることで、身近な風景や身の回りの習俗などが少し違って見えてくるはずです。本書が、『古事記』を手がかりに、読者の皆さんが現代のなかに古代の人々の息吹を感じとるきっかけになることを願っています。

おわりに

 イザナキとイザナミは、どのようにお互いを呼び合っているでしょうか。
「あなた」でしょうか。それとも「お前」でしょうか。「きみ」かもしれません。
 イザナキは自分のことを何と言っているでしょう。「わたし」でしょうか。「俺」でしょうか。それとも「僕」でしょうか。あるいは、同じ音でも軽みのある「ボク」と表記するほうがふさわしいのでしょうか。
 もし私が『古事記』を現代語に訳すとしたら、どの人称を選ぶだろう。折に触れてそう考えてきました。『古事記』に親しみをもってほしいと思うと、人称の選択はきわめて重要に感じられたのです。

 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、「吾輩」でなく「わたし」や「ボク」だったなら、まったく違う作品になっていたはずです。一人称や二人称は単なる代名詞ではありません。人物の輪郭や、語り手と相手との距離を決めてしまう言葉です。だからこそ私は、日常のなかでも人々がどのように呼び合い、自分をどう言い表すのかをつい観察してしまいます。「僕」と書くのか「ボク」と書くのか、その違いだけでも印象はかなり変わります。

 たとえば、イザナキがイザナミに「汝(なんじ)が身はいかに成れる」と問う場面を「キミの体はどんなふうにできているの」と訳したとします。その瞬間、二柱の関係やイザナキの年齢、性格までが、読む人の中で具体的な像を結びます。
 こうした問題を強く意識するようになったのは、『古事記』の翻訳研究を通してでした。『古事記』は1882年、バジル・ホール・チェンバレンによって英訳されて以来、多くの言語に訳されてきました。世界各地には、それぞれの文化や言語に根ざした多様な『古事記』が存在します。

 英語では一人称は基本的にI、二人称はyouです。相手が神であっても天皇であっても変わりません。その点では日本語より単純に見えます。しかし一方で、単数か複数か、男性か女性かによって代名詞や動詞の形は変わります。日本語の『古事記』であいまいにされていたことが、翻訳されているものを読んで「これは誰の声なのか」「この神は男性として描かれているのか」とあらためて考えさせられたりします。翻訳とは、『古事記』のあいまいさを照らし出すとともに、新たな『古事記』を生み出す試みなのだと考えるようになりました。

 本書の企画をいただいたのは2020年でした。翌年から取り組み始めましたが、さまざまな仕事に追われるなか、いざ原稿に向き合うと人称問題をはじめとする多くの壁の前に立ち止まり、考えれば考えるほど筆が進まない時期が続きました。
 転機となったのは、2025年4月から在外研究の機会をいただき、ロンドン大学SOAS校での研究生活がスタートしたことです。そこで、慌ただしい日常から少し距離を置き、神話や翻訳について改めて考える時間を得ました。異なる文化や言語が交差する環境のなかで、『古事記』を現代日本語で語るとはいかなることかを、改めて自分に問い直しました。

 そこであらためてチェンバレンに向き合ったところ、素朴で簡明な英訳を心掛け、文学的な効果よりも後世の土台となることを目指した姿勢が浮かび上がります。わたしが送り出したいのも、「私の『古事記』」を強く打ち出す作品ではありません。イザナキを「俺」と感じるか、「僕」と思うか、それとも軽やかな「ボク」を思い描くか。その想像をできるかぎり読者に委ねられるような、余白を残す現代語訳です。
 本書が、みなさんの中にそれぞれの『古事記』の姿を思い描く一助となれば幸いです。


いちばんわかりやすい古事記』(2026年、大和書房)の「はじめに」と「おわりに」より著者と出版社の許可を得て抜粋・編集しました。無断転載を禁じます。

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2026年11月7日(土)開講・全6回


平藤喜久子

平藤 喜久子(ひらふじ・きくこ)

國學院大學神道文化学部 教授

学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程日本語日本文学専攻修了。博士(日本語日本文学)。専門宗教文化士。専門は神話学、宗教学。
日本神話を中心に他地域の神話との比較研究を行う。また、日本の神話、神々が研究やアートの分野でどのように取り扱われてきたのか、というテーマに取り組んでいる。日本や海外の学生のために、日本の宗教文化を学ぶための教材を作るプロジェクトにも携わっている。

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