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今月の1冊

2013年06月11日

『ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』

石光真人(編著); 出版社:中公新書; 発行年月:1971年5月 ; ISBN:978-4121002525; 本体価格:693円
書籍詳細

NHK大河ドラマ「八重の桜」は、いよいよ前半の山場を迎えようとしている。6月9日の第23回放送では、奥羽越列藩同盟が成立し、ついに会津戦争が始まった。
ドラマの後半戦は、綾瀬はるか演ずる主人公八重が敗戦を乗り越え、明治という新しい時代を逞しく生き抜いていく姿が描かれるであろう。
今回取り上げる『ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』も、同じ戦に敗れたひとりの少年会津武士が、困窮を乗り越えて明治初期を生き抜いた青春の手記である。


会津人柴五郎は、安政六年(1859年)会津藩の上級武士の子として生まれた。五男五女の九番目、末の男子であった。調べてみると、ドラマに八重の幼馴染として登場している日向ユキ(剛力彩芽が演じている)は、五郎の6つ年上のいとこにあたるようだ。
会津藩が、一カ月に及ぶ鶴ヶ城籠城戦のうえ降服したのは明治元年(1868年)の9月22日。五郎は9歳でこの悲劇を体験した。この戦前後の会津の苦難と壮絶は大河ドラマでも存分に描かれると思うが、柴家もまた悲惨な運命を辿ることとなった。
五郎以外の男子は全員出陣し、9歳の五郎は、家名を繋ぐためにひとり山村の別荘に匿われる。もちろん本人はその理由を知る由もない。戦いに身を投じた父と三人の兄は僥倖にして生き残ったが、祖母、母はじめ五人の女子家族は全員自刃した。会津には、籠城できない老女や幼子を抱える家で同様の悲劇が数多くあった。
五郎は、その後筆舌に尽くし難い苦難を生き抜き、周囲の支援と本人の努力で道を切り拓いて陸軍幼年学校・士官学校へと進み、軍人として身を立てる。最後は陸軍大将にまで栄達する。
この本は、80歳を過ぎた柴五郎翁が、会津戦争前夜から西南戦争後までの10年間、すなわち9歳から20歳までの青春時代を振り返った手記と語りをもとにしている。時代の転回点で、激流に飲み込まれ翻弄されていく少年の姿は、涙なくして読むことはできない。だれが、いつ読んでも泣かずにはいられない。
「本書の内容は、お読みくださる以外に、これを短文で語ることは不可能である」
冒頭で編著者の石光真人氏はそう言い切っている。その意志を尊重し、内容はここで紹介することは避けるが、「八重の桜」が放映されているこの期に、ぜひ読んでいただきたい本である。その証拠に、1971年に初版刊行され、私の手元にあるものですでに46版。長い間読み継がれてきた古典的自叙伝といえるだろう。
柴五郎は、軍人としても歴史に名を残す存在であった。長らく北京駐在武官を務め、陸軍きっての中国通と言われた。そのバランスの取れた中国観と軍事外交手腕は、国内はもちろん、他国軍の幹部からも高く評価された名将である。
インテリジェンス論の専門家である手嶋龍一氏は、日本で最初のインテリジェンスオフィサーとして柴五郎の名を挙げる。
明治期の陸軍のインテリジェンス担当には、中国通の柴五郎と並んで、革命前夜のロシアで諜報活動を行い、日露戦争の影の功労者といわれる石光真清がいる。この本の著者、石光真人氏の父である。真人氏によれば、石光真清は、柴五郎と恩義ある人を同じくする縁があり、若い頃からその謦咳に触れて育ったという。
昭和の陸軍エリートには、柴五郎や石光真清のように艱難辛苦をなめた人物がいなかった。両名のような的確なインテリジェンスがなかったことが、中国侵略という愚策にのめり込んだ一因でもあった。
この本の原典ともいえる手記を五郎翁が石光真人氏に手渡したのは昭和17年の秋だという。ミットウェー海戦で敗れ、ガダルカナル奪還戦に失敗した頃で、いまから思えば戦局が一気に暗転した時期ではあるが、日本人の多くはまだ正確な事実を知らされていなかった。ゆえにまだ威勢がいい頃である。
五郎翁は、戦局の行方を問う真人氏に確信のこもった声で言ったという。
「この戦は負けです」
自らの後輩である陸軍エリートが引き起こした戦争の末路を、開戦した時から見透かしていたのかもしれない。
会津の悲劇のひとつの側面は、残された者たちが、それを声高に語ることを許されなかったことにある。もとより明治の日本は、薩長藩閥が作った世の中であった。会津の悲劇は東北人の間に声をひそめて語り継がれるしかなかった。
柴五郎も同様であったに違いない。薩長閥が権を握る陸軍で栄達を果たしながらも、胸の奥底に秘めた複雑な思いを抱えていたのではないか。そんな五郎翁が、祖国がなくなるかもしれない事態を予見して、自分の、そして会津武士の遺書として、昔年の思いを残そうとしたのが本書である。
福澤諭吉は『文明論之概略』の緒言で、「一身にして二生を経る」と、同時代人の特徴を語っている。ひとりの人間が二つの人生を生きたと述懐するほどの大変化が幕末~明治には起きていたということだ。
『ある明治人の記録』に綴られている柴五郎の十代は、「一身にして三生を生きた」感がある。厳格ながらも愛情に満ちた父母の膝下に侍り、一族の庇護のもとに生きた会津武士の幼年時代。敗残者の小倅として屈辱と飢餓に耐え忍んだ6年間。草創期の陸軍幼年学校でフランス式軍事教練に汗を流した青春期。
多感な十代にこれほどの激しい変化を経験した人間は多くはいないだろう。
時代が人に壮絶な苦難をもたらし、苦難の経験が人を育て、感動の手記が紡がれた。
明治維新が日本人に及ぼしたものは何であったのかを考えるうえでも意味のある本だと思う。
(城取 一成)

ある明治人の記録 -会津人柴五郎の遺書-』 石光真人編著(中公新書)

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