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今月の1冊

2015年03月10日

『夜明け前』 

夜明け前
著:島崎 藤村 ; 出版社:新潮社 ; 発行年月:改版(1954年12月); 本体価格:670円税抜

今回は随分と敷居の高い本を取り上げてしまった。

なにせ『夜明け前』は手強い。所蔵の新潮文庫版は、二巻上・下で全四冊。大著である。
しかも、島崎藤村は故郷信州を代表する文豪である。心して取りかからねばならない。

『夜明け前』の舞台は、藤村の故郷 木曽谷馬篭宿である。美濃と信州の県境にある中仙道の宿場町で、宿の南側入口には「これより北、木曽路」という石碑が立っている。ちなみの私の故郷のすぐ南隣の贄川宿には、「これより南、木曽路」と書かれた石碑がある。贄川から馬篭まで十一宿、四十キロ程の谷筋が木曽路である。

この物語は、幕末ペリー来航の頃から明治19年までの30余年、主人公の青山半蔵(藤村の父 島崎正樹がモデル)が18歳から50代前半で狂死するまでを描いている。
それは50代半ばにさしかかろうという私が、19歳で故郷を出てからの年月と重なる。この本が気になるのは、そんなところにもあるのかもしれない。

「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」

この書き出しは、あまりに有名である。確かに木曾路は山深い。
街道をゆく人々を、鬱蒼とした山緑が両側から包み込む。後ろを振り返ると、急峻な山裾が迫っている。前を見渡せば、峠が行く手を塞いでいる。首をそらして見上げないと青い空は目に入らない。木曽路はそんな土地である。

江戸の頃、木曽は徳川幕府の直轄領であった。木曽檜をはじめとした豊かな山林資源があったからだと言われる。人や荷物の通交管理を行うにも都合が良かったのであろう。中仙道の最大の難所で、間道がほとんどないから、関所を置くにはうってつけだ。

木曽の山々から、伊勢神宮の遷宮用木材を供給していたこともあって、尾張藩が幕府からの委任統治を受け持っていた。
「檜(ひのき)一本、首一つ」
尾張藩は厳重な統制システムで山林を管理し、住民には檜などの伐採を禁じていた。

人々は、街道沿いに宿や飯屋を営み、馬役や荷受運搬を生業とした。櫛や椀などの土産物を作る職人や山稼ぎなどで生計を立てるものもいた。
山裾のわずかな傾斜地を耕して野菜を作り、山菜や山栗、くるみ、山鳥、イワナ、ヤマメなど、ふんだんに採れる山川の幸を食材にした。質素ではあるが、豊かな自然に恵まれた山棲みの暮らしがあった。

『夜明け前』の主人公青山半蔵は、馬篭宿で本陣に庄屋、問屋を兼務する名家の跡取りである。幼い頃から国学を学び、漢詩を吟じる、山峡の街道に生きる知識人であった。

木曽路には、その険峻さゆえに、多くの宿場があり、どこも大いに賑わったという。中仙道には、増水で足止めを受けるような大河川がなかったため、主要幹線道路として東海道以上によく使われた。大名行列をはじめ、江戸と京・大坂を行き来する武家役人や、商人が狭い街道を頻繁に行き交った。

当時、主要街道の宿場町は、人と物資の流れのハブのような機能を持っていた。山深い僻地ではあったが、情報は十分に入ってくる。
街道を行き来するなじみの商人は、京や江戸の様子を定期的に伝えてくれるし、飛脚や密使も、山家の酒肴に気を許して、重要な話をポロリと漏らしてしまうこともあったろう。

馬篭宿で、本陣に庄屋、問屋を兼ねる青山家は、情報と交通の結節点でもあった。
折しも時代は大きく転回していった。転回がもたらす風を半蔵は肌で感じていた。

一方で、内に目を向ければ、何百年と変わらない山の暮らしがある。
半蔵は、木曽川の急流の岩陰に生じる淀みの”とば口”にいるようなものだ。
流れとよどみの狭間にあって、激しく流れるものと、少しも動かずに漂うものの両方を見ている存在である。変わるものと変わらざるもの、動くものと動かないもの。その狭間に生きる者の宿命として引き受けねばならない葛藤が彼を苦しめた。

小賢しい人間は時代におもねって生き抜く。
愚かな人間は時代に流されて漂っていく。
生真面目な人間は、変化の摩擦面に身を置いて苦しむ。

半蔵は不幸にして聡明であった。それゆえに新しい時代に過大な幻想を抱いてしまった。
半蔵は不幸にして繊細であった。それゆえに幻想と現実の境目が見えなくなっていった。

主人公の脆弱な気質の造形は、モデルである藤村の父島崎正樹の宿痾でもあった。
「親譲りの憂鬱」
藤村が、自らが背負った暗い宿命をそう表現したように、島崎家は、狂気の血筋を引いていたのである。父のみならず姉も狂死している。
いつか、自分も父や姉のようになるのではないか、その不安は生涯に渡って藤村を苦しめた。その恐怖が『夜明け前』のそこかしこに投影されている。

さて、物語の主人公青山半蔵が抱いた幻想は「王政復古」であった。平田国学の門人でもあった半蔵は、明治維新の正当性を支えたこの思想に大きな期待を寄せていた。新たなる世とは、帝を中心にした古代王政への回帰である。神の御心を捧げ奉った古き良き時代へと戻っていく。

青山半蔵にとって、明治とはそういう時代でなければならなかった。
現実の明治は、彼の期待した通りには動かなかった。

半蔵は、木曽の山林を村民のために使いやすいようにしようと運動を起こすが上手くはいかない。逆に木曽山林事件として責任を問われ、戸長免職にまで追いこまれる。同じ頃、挙式を直前にした娘のお粂が自殺騒ぎをおこす。
半蔵の身の周りに起きる小さな悲劇が、少しずつ彼を苦しめていく。

「王政復古」が幻想でしかなかったことに気がついた頃、半蔵の精神は惑いはじめていた。むなしい掛け声に踊らされ、散っていった多くの草莽の人々と同じように、信州の山峡に生まれたひとりの地方知識人は、維新に期待し、裏切られる。
ついに半蔵は江戸に出て、明治大帝の行幸の列に突進し、世を憂いた和歌をしたためた扇子を天皇の馬車に投げ入れようとして咎めを受ける。

獄から出た半蔵は、やがて故郷で隠棲を命ぜられる。
身をもって流れに棹ささんとした半蔵を故郷の人々は温かく迎え、かつてと同じように「お師匠さん」と慕う若者に見守られながら逼塞する。
しかし、半蔵の心が晴れることはない。
自分の苦悩をそ知らぬように、何百年と続く山棲みの暮らしを疑わぬ故郷の人々を前にして、静かな絶望が彼を包んでいく。

私はかつて、馬篭峠を歩いたことがある。
妻籠宿と馬篭宿を隔てる峠で、半蔵が毎月のように歩いて越えた細い山道である。
峠の途中で後ろを振り返ると、馬篭宿の集落は、大地に根を張り、背を低くして風をよけ、身を寄せ合いながら風雨を防いでいるかのように見える。

しかし、己を見失った半蔵の目には、違った光景に見えたのかもしれない。
山峡を流れる木曽川の流れの筋目は変わり、よどみはやがて消滅していく運命にある。かといって、急流に乗り出す知恵も体力もない。
よどみの中で、行き場を失うように寄り集まった木の葉のような存在。揺れながらも揺れていることに気づくことなく、よどみの中で漂うだけの “うたかた”。

半蔵には、馬篭宿の街並みが、そんな風に見えていたのだろう。彼は、故郷の寺に放火し、座敷牢に閉じ込められ、狂乱のうちに死んでいく。
「維新前後の歴史を舞台として働いた下積みの人たちを中心にした物語でございます。」
あとがきで、藤村は『夜明け前』をこう語っている。

坂本龍馬が3万キロの船旅をしていた時代。

新撰組が京の町を血で染めていた時代。

勝海舟と西郷隆盛が世紀の会談を行った時代。

岩倉使節団が西洋列強の力を見せつけられた時代。

西南戦争で武士の世が終わりを告げた時代。

信州木曽谷の地方知識人、青山半蔵が生きた時代は、そういう時代であった。

そして、日本中の山村に、農村に、漁村に、無数の青山半蔵がいた。人知れず下積みの存在として時代に翻弄され、消えていった。
歴史の舞台が動くということは、そういうことであろう。
 
(城取一成)

夜明け前』 新潮文庫

 

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