2016年11月08日
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右に分かれるのか』
「インテリの喧嘩には終わりがない」
大学という組織の一員になったばかりの頃に最初に感じたことである。あるビジネススクールの教授は「教授会は動物園のようなものだ」とよく言うが、言い得て妙な比喩だと思う。
ライオン、トラといった猛獣から、タヌキ、キツネのような狡猾な輩、腐肉を漁るハイエナやハゲタカまで、多様な動物がひしめきあい、知性という仮面を被って、論争という喧嘩を繰り広げている。
インテリは、エビデンスや理屈を並べたて、理論整然と喧嘩をする。喧嘩の根源は、感情情的な(しかも根深いところでの)対立に起因していることが多い。傍から見るとそれがよくわかるのだが、本人達はあくまでも理性的な知的論争をしていると認識しているように見える。そこでは、終わりなき理屈の応酬が繰り返される。
同じような対立(インテリの喧嘩)は日本の政治・社会にも散見される。憲法改正、原発、公共事業の是非等々。世界に目を転ずれば、もっときな臭い。IS問題、EU危機、中国・ロシアの覇権主義的行動と西欧諸国等々。
対立は、時間が経つにつれエスカレートしているのではないかという不安に駆られる。
この先どこまで先鋭化するのか。テロの拡散や戦争にまで拡大するのでないかと心配になる。世界は、漠然とした不安の黒雲に覆われている。
ジョナサン・ハイトは、この本を「政治と宗教を考える新しい方法」を提示するために書いたと記している。
「政治と宗教」は、根深いところでの対立が現出しやすい場である。だからこそ、人種のメルティングスポットである米国社会では、礼儀を重んじる場ではこの二つに触れてはいけないとされてきた。
そうではなくて、相手を理解するためには、おおいに話し合うべきだというのがハイトの意見である。その際に必要な「政治と宗教を考える新しい方法」が本書で示されるというわけだ。
この本は、右派と左派の対立が激化する構図を明快に解説したことで、全米ベストセラーになったと聞く。ただし、あらかじめ言うが、この手の大きな物語を語る本と同様に、処方箋に驚きはない。当たり前のこと、穏健的な融和策を粘り強くやるしかないという結論を再認識することになる。
答えというよりは「対立」のエスカレーション現象のメカニズムを丁寧に論述した本と言えるだろう。
それにしてもジョナサン・ハイトの圧倒的な知性には驚かされる。専門の社会心理学から始まって、脳科学、進化生物学、宗教社会、政治、哲学、倫理まで、縦横無尽に知識が披露されている。現代の知の巨人もひとりであろう。
本書は、三つの論点とそれを踏まえた希望的提言で構成される。
- 対立とはどういう現象なのか
- なぜ、対立は生まれるのか
- なぜ対立はエスカレーションしてしまうのか
- 忘れてはならない希望
拙文では、これらを自分なりの言葉で語ってみたい。
1.対立とはどういう現象なのか
人間同士の、主として人間集団間の対立とは、いったいどういう現象なのだろうか。ここでは、社会心理学、脳科学、進化生物学の知見をフル動員した、知の巨人ならではの解説が展開される。
「巨大な象(直観)にまたがる乗り手(理性)」
ハイトが示す、ユニークなメタファーが、この章の結論を示唆する。
このメタファーは、人間の意思決定における、直観と思考の運命論的な関係性を暗示している。
意思決定において直観が理性に優先されることは、プロスペクト理論の名でよく知られている。この理論をベースに行動経済学が生まれ、トゥバルスキーはノーベル経済学賞を受賞した。直観と思考の運命論的な関係については、トゥバルスキーの近著『ファスト&スロー』が詳しい。
ハイトは、プロスペクト理論を一歩進めて、直観が働く時は、脳の奥深いところにある辺縁系(古い脳)が動き、一方で理性的な思考を巡らしている時には、脳の表層部分である新皮質(新しい脳)が活発化しているという脳科学の知見を提示する。
つまり、直観と理性の関係は、人間の古い脳が新しい脳に優先することに他ならない。
ハイトの言葉を借りれば、「心は乗り手(理性=新しい脳)と象(直観=古い脳)に分かれ、乗り手(理性)の仕事は、象(直観)の弁護人でしかない」というわけだ。
人間は、どんなインテリであっても、直観に基づいて意思決定を行い、理性は、後付けの言い訳づくりを担当するのが基本構造であるというのだ。理性は論争の武器ではあるが、理性によって論争を抑制することはできない。
だからインテリの喧嘩は終わらない。理性の引き出しがたくさんある(武器が豊富な)知識人ほど、喧嘩は長引く。
これが、世界を覆い尽くす根深い対立の基本構造だとハイトは言う。
2.なぜ、対立は生まれるのか
構造が理解できたところで、そもそも人間は、なぜ対立するのだろうか。さらには個人の対立が集団同士の対立へと発展していくことがあるのはなぜなのだろうか。
根深い対立の典型例として左右勢力間の政治的対立を例にとって、ハイトは解説する。
人間は生来的に、正義、道徳といった「社会的な善」へのこだわりを有している。ハイトはこれを「道徳基盤」と呼ぶ。政治や宗教など根深いところでの対立の多くは、その人が拠って立つ価値観、世界観の違いによって生じることは誰もが知るところである。価値観、世界観を方向付けるのが「道徳基盤」である。
ハイトによれば、道徳基盤はひとつではない。六つに類型化できるとする。このあたりは道徳心理学を専門とするハイトならでは論述であろう。
「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「神聖」「自由」の六つの類型である。それぞれの定義の詳細は割愛するが、興味のある方は本書を読まれたい。
ハイトの調査研究によると、米国の左派(リベラル)を信奉する人は、3つ(ケア、公正、自由)の道徳を重視するが、忠誠、権威、神聖には重きを置かない。
その一方で、右派(保守)の立つ人は、6つの道徳すべてをバランスよく調和させようとする。
世界が右傾化していると言われている。米国のトランプ現象、欧州での極右政党の台頭、英国のEU離脱。日本での安倍政権の長期化が、その証左であろう。
ハイトによれば、この現象は、道徳基盤の多様性で説明できるという。左派(リベラル)は3つの道徳基盤の受け皿にしかなれない。これに対して右派(保守)はすべての受け皿になりうる。つまり原理的に価値多元社会に適応しやすい。
言い方を変えれば、右派は直観に訴えれば、6つの道徳基盤のいずれかに響く。ゆえに右派の政治家は、直観的な論争を志向する傾向がある。左派は、依拠する道徳基盤が少ないゆえに直観的論争には不向きである。ゆえに理性的な論争を志向する傾向がある。
直観に訴求することに長けた右派政治家といえば、ヒトラー、ムソリーニが典型であろう。トランプ、橋下徹、ルペン(仏の国民戦線党首)など現代の政治家にもあてはまる。
すでにひと通りの「自由」が実現し、ある程度の「ケア」や「公正」な社会制度が整った西欧の先進国で、リベラル勢力が自由の価値、不正の問題を、人々の直観に訴えても、多くの人々の心には響きにくい。結果的に左派は、難民問題や格差社会の是正を理性的に訴えることになる。
一方で、右派は難民問題や移民の増大がもたらす社会構造のきしみや摩擦を直観的に訴えかけることが出来る。社会秩序の崩壊、伝統の危機をストレートに直観に訴える。
眼前のリスクに過剰反応するという人間の意思決定メカニズムを考えれば、どちらが論争に強いかは自明である。
これが、ハイトが分析した世界(特に成熟化した先進国)が右傾化するメカニズムである。
3.なぜ対立はエスカレーションしてしまうのか
政治や宗教の問題は根深いところの対立に起因する。その対立は過激化し、排他的になる傾向がある。敵対する他者を口汚く罵る一方、仲間同士の強い結束や同化を促す。対立は、人々の盲目的な集団志向を加速化させていくように思える。
この理由を、ハイトは進化生物学の知見にもとづいて説明する。
「人間は、90%は猿だが、10%はミツバチである」
ここでもハイトは、得意のメタファーをもって結論を示唆している。
猿というのは、利己的な存在として人間のメタファーである。自分の利益を第一に考え、利益獲得のために競争を繰り返す。それが人間である。
人間の行動の90%が猿のメタファーで説明できることは、近代経済学の基本原理が、「合理的経済人モデル」に依拠していることからもわかるであろう。経済学では、人間を自己利益の最大化を志向する利己的な存在であると定義しているのだ。
もうひとつのミツバチとは、何かの拍子にスイッチが入った時に発現する集団的・利他的な行為のメタファーである。働き蜂が、巣の建設と維持、女王蜂の育成にその一生を捧げ、時に自己の身を投げ打って、侵略者(スズメバチ)と戦うように、人間には10%の集団的・利他的な側面がある。
人間はほとんどの場合、猿のように利己的な遺伝子に従って行動し、より強い個体が群れのボス猿のように群に君臨する社会を作ってきた。
しかし、ある条件が整うと、ミツバチスイッチが入り、利他的な集団に変貌し、協調や役割分担や帰属を行うことで、集団間の競争においては、我が身を投げ打って戦うことがある。それゆえ、犠牲をいとわず協調する集団が、利己的な個人からなるバラバラな集団を打ち負かし生き残ってきた。
人間は、強いボス猿になりたいと願う存在であると同時に、時にミツバチのような自己犠牲をいとわないこともある。
ハイトの言葉を借りれば、「私達の遺伝子には、ミツバチスイッチが埋め込まれている」ようだ。
ハイトは、ミツバチスイッチが入る条件を「集団的沸騰」と呼ぶ。卑近な例をあげれば、学園祭的な興奮、体育会的な集団生活、カリスマによるスピーチに酔いしれる時、オリンピックの応援などはそれにあたる。集団的な儀式によって引き起こされる熱狂や陶酔によって、私達のミツバチスイッチがオンになる。
スイッチが入ると、人間は、一時的ながらも自己を消失し、集合的な関心が支配する神聖的な領域に入ることがある。誰もが一度は経験したことであろう。
個体としては脆弱な人類が、地球上の生物の頂点に立つことができた理由のひとつは、ミツバチスイッチのおかげでもある。他者と協調し、役割分担し、時に自己犠牲をいとわずに集団に帰属してきた先人がいたからこそ、人類の今日がある。人間の知性は他者と連結すること技術と文化の発展を可能にした。ミツバチスイッチがなければ、今日の人類の発展はありえない。
しかしながら何事においても、利点は弱点の裏返しでもある。
集団志向は、人々に類似性を強制し、多様性を否定することにつながる。集団は所属する人々の同調性を求め、自由を束縛する。集団の結束を強化するために、競争相手の集団に対する憎悪を増長させていく。集団志向は、排他的に強化されていくという弱点を持つのである。
この弱点によって、集団間競争はエスカレーションという危険性を伴うことになった。ミツバチスイッチは戦争や集団殺戮を引き起こすこともあるのだ。
悲しいことに、人類はこの手の失敗を幾度となく繰り返してきた。
4.忘れてはならない希望
本書を含めて、ハイトの著作に全体に流れるものには共通軸がある。それは、東洋の叡智への憧憬と尊敬である。本書の結語においても、古代中国の陰陽論を紐解いている。
陰陽論は、外部から対立しているように見えるものが、実際には相互に依存し、補完的な二つの事象を指す。万物は陰と陽の二つの側面を持ち、両者があってこそ成り立つという考え方である。
人間にも、人間が形成した社会にも二面性がある。陰陽論に立てば、対立相手は叩き潰すべき対象ではなく、自分を相対化し、光を当ててくれる存在なのかもしれない。
道徳基盤が多様であるのは、人類が生き残るための要因確保がそれだけ多様であったからだ。言い方を変えるとすれば、道徳基盤がひとつに収斂されなかったからこそ、人類は、進化の過程で世界中に広がることができた。
砂漠の民が信じた一神教。熱帯雨林で暮らす人々が奉じた多神教。いずれも、それぞれの地域に住む人々が生き抜くために必要があって生まれた宗教である。両方があって世界がある。
リベラルも保守も道徳基盤に依拠している。いずれも意味があって存在している。だとすれば、両方あることを受け入れて、上手に付き合う道を探すしかない。
国家をひとつの色に染めるのではなく、かといって、てんでばらばらでもない。地域、企業、同窓、協会等々の小さな共同体的集団への凝集性を認め、適度な集団間競争を促しながら、幸せで生産的な社会を形成していく。それが健全な国家ではないかとハイトを言いたいのではないか。
現在の世界の危機、そして日本の危機は、小さな共同体的集団が衰退することで、剥き出しの個人が自分の力だけで生きる意味を見出さなければならなくなっていることにある。
小さな共同体的集団の喪失は、深いところで他者とつながりたいという人間の本能の拠り所がなくなることにつながる。そんな状況のもとでは、雄弁で勇ましいリーダーの甘言に乗せられやすくなる。日本社会に蔓延する強いリーダー待望論にも同じ図式があてはまるのではないか。
いま、私達が持たねばならない希望は、「あきらめないという勇気」である。
幸せに至る道は、平坦でわかりやすい一本道ではないけれど、けっしてショートカットすることが出来ない道なのだから。
(城取一成)
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