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小泉 八雲『日本人の微笑』

2019年12月10日

日本人の微笑
著:小泉八雲 ; 翻訳:上田和夫 出版社:新潮社(新潮文庫) ; 発行年月:1975年3月; 本体価格:710円

2019年秋、東京駅22:00。
9番線ホームから、日本で唯一毎日運行する寝台列車が滑り出した。
その名は、サンライズ出雲。金曜日ともなれば、ほぼ満席の人気ぶりだ。
その客車で事件は起きた。

「もう完売しちゃったんですよ、シャワーカード」
車掌は眉尻を下げて微笑んだ。
痛恨のミスであった。
初めてのサンライズ出雲乗車に心浮きたち、きょろきょろしながらカード自販機にたどり着いた時には、無情にも「売り切れ」表示となっていた。
うなだれた私だったが、ふと思いついた。もしかしたら、これからカードの補充があるかもしれない。そう期待して、検札に回ってきた件の車掌に尋ねてみたのだ。

しかし、
「いやぁすみませんね。何とかできればいいんですが」
と、気の毒そうな眼差しと穏やかな笑みが向けられた。
シャワー室が人気なのは車掌のせいではないのに、謝ってもらうのも申し訳ない。私は冷静さを取り戻し、車掌に礼と呼び止めた詫びを言った。

こうして始まった旅の目的地は、島根県の松江である。
松江には国宝指定をされた現存天守を有する別名千鳥城がある。また、茶どころ松江とも言い、松江藩七代藩主の松平不昧公から広まった茶の湯を日常の中で楽しむ文化を今も残している。
出雲国と呼ばれていた在りし日を思わせる城下町には、もう一つ、文学ファンにはたまらない宝がある。作家・小泉八雲の存在である。

小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーンは、イギリス歩兵連隊付き軍医である父と、ギリシャ出身の母の大恋愛の末、1850年にギリシャ・レフカダ島で誕生した。2歳の時に家族そろってアイルランドに移ったが、幼少期に両親は離婚し、母は帰国、父は再婚してラフカディオをおいて去ってしまう。大叔母に引き取られたラフカディオは、少年期をイギリスとフランスで過ごすが、その大叔母も破産し、寄宿学校を退学することになる。続く不幸がラフカディオの感覚を鋭敏にし、隠された細やかなものを感じ取る力を養うことになったのだろう。

19歳でアメリカに単身赴いた彼は、印刷社で働きながら寄稿する苦しい生活を続け、やがてジャーナリストとして認められるようになる。シンシナティー、ニューオーリンズ、さらにカリブ海のマルティニーク島へと居を移し、その土地に生きる人々の生活や風習に自身も身を浸し、独特の鋭い感性でその魅力を見出していった。

そんなラフカディオが、日本と出会ったのはニューオーリンズで開催されていた万博である。そこで見た日本文化や英訳『古事記』に魅了され、1890年39歳の時、ついに横浜港に降り立つ。万博で得た縁を頼りに、島根県尋常中学校の英語教師の職を得たラフカディオは松江に赴く。そして、『古事記』ゆかりの地である出雲松江で、士族の娘であり後に伴侶となる小泉セツと出会う。セツや周囲の支援を受けながら教師として教える日々の中、今までそうしてきたように日本人・日本文化を丁寧に観察した。

同時にそれらを深く愛したラフカディオは、46歳で帰化し、小泉八雲と名乗ることになる。その後、松江、熊本、神戸、東京と移りながら、日本文化・日本人に関する考察をまとめた論文や、日本人から聞いた怪談や巷説を、西洋人へ向けて英語で発信した。
今日の日本人が親しんでいる『耳なし芳一』や『雪おんな』などの怪談は、『怪談』(Kwaidan)という英語で出版された作品が、日本語に訳されたものである。

さて、松江時代、八雲が寝起きした旧居のそばに小泉八雲記念館がある。
和風の木造平屋の外観からは想像できないような、白を基調としたモダンなエントランスを通り抜けた先に展示室が広がる。そこには、八雲の誕生から、旅を続けて日本に至り、多くの人に愛されて眠るまでの足跡が、様々な愛用品と共に紹介されている。
彼を突き動かした情熱がどこから生まれたのか。
生涯、何に目を向け、愛を注いだのか。
八雲の人生の旅、作品、彼を支えた人々について、縦糸と横糸のように編まれた展示は見ごたえたっぷりで、気づけば3時間近くが経っていた。
もう少し八雲の世界に浸りたい……と、ミュージアムショップで『小泉八雲集』を購入した。

『小泉八雲集』には、『知られぬ日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan)』や『怪談(Kwaidan)』など、日本に関する作品集が複数収められている。
西洋人向けに英語で出版されたこれらの作品集には、面白いものが付属している。日本の風習など西洋人にとってわかりにくいであろう事には、注釈がついているのである。
同時代の西洋人から見た日本・日本人考に、色々考えさせられる。

『知られぬ日本の面影』には、明治期の日本人を観察し考察した日本人論『日本人の微笑(The Japanese Smile)』が含まれている。
それには、こんな注釈が添えられている。

<本編>

日本人の使用人たちは、外国人に仕えるさい、最初、日本の貴人に仕えるのとまったく同じように振舞う。

<注釈>

読者は、ベーコン女史の『日本の娘と女たち』の「召使奉公」の章を読まれるとよい。男女双方の召使に関する、奉公の実際面における興味深い正確な記述がみられるからだ。しかし、奉公の詩的な面は扱われていない──たぶん、キリスト教的な立場から書く人は共感をもって考えることのできない信仰と、密接に結びついているからであろう。古い日本の召使奉公は、宗教によって変形され規定されてきた。そして奉公に関する宗教的感情の力は、今日でも知られている、次のような仏教のことわざからも推測できる。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」といわれ、親子の関係はわずか現世のあいだだけであり、夫婦の関係は来世までつづくが、主従は、生き替り死に替り三世のあいだつづくという。

この注釈から、当時の西洋人が物事を解釈する軸の一つを、当たり前のように宗教に置いていたことが伺える。そして、それは多くの場合、キリスト教的軸と仏教的軸の対比で説明されたのかもしれない。
あくまでも八雲というフィルターを通したものではあるが、「当時の西洋人・日本人の当たり前の感覚」がそこには感じられる。

また、当時の日本人が語る日本ではなく、西洋人からみた日本人が説明されているのが大変面白い。日本人に感じる違和感が強調されるため、当時の日本人らしさが際立つ。
現代の私の価値観とは必ずしも一致しないが、瞬間的な言動や湧きあがる感情の根っこをたどると、明治期の日本人と同じ何かが存在するのかもしれない。

注釈一つでもこれだけ考えさせられるのだが、本編はそれ以上に面白い。
異文化を注意深く観察し愛してきた八雲である。日本についても、神道・自然観の影響、武家といった階級制度、学校や家庭内で行われてきた伝統的教育も考慮しながら日本人を紐解いている。
それが、私自身の理解、根源の探究にも示唆を与えてくれる。

こんな話を耳にしたことはないだろうか。
「日本人は緊張が高まった場面や相手が怒っている場面、悲しい場面など、およそ面白くなんてない状況で、なぜ笑うのか」
これは明治期の日本人も同様で、当時の西洋人の目には奇異に映り、時には驚かせ、時には怒らせたようだ。なにせ、つい先日まで鎖国していた神秘の国で、相互理解などまだまだ遠い時代のことである。

八雲はある日、横浜に住む西洋の友人からこんな話を聞かされた。
馬に乗った友人が日本人の車夫がひく空の人力車と行きあった時の話である。
友人は馬と俥がぶつからないように、車夫へ「道の向こう側へ行け」と怒鳴った。しかし車夫は俥の向きを変えて少しバックして避けただけだった。

友人は八雲に言った。
「ぼくは同じ調子で進んで行ったので、とても避けられたものではない。あッという間に、俥の梶棒の一つが、ウマの肩にぶつかった。車夫は、怪我もしていない。馬を見ると血を流しているので、ぼくはカッとなって、そいつの頭を鞭の握りでなぐりつけてやった。男はぼくの顔をじっと見つめると、にっこり笑って、頭を下げるのだ。いまでも、その微笑を思い浮かべることができる。ぼくは打ちのめされたような気がした。微笑にすっかり面くらって──腹の立ったのも、いっぺんに消えてしまった。いや、なんともいんぎんな微笑だったな。が、どういう意味だったのだろう。いったい、なんであの男が笑ったのか。ぼくにはそれが分からんのだ」

この微笑について、後日八雲はこのように考察している。
「その微笑には反抗も偽善もない。とかくわれわれ(西洋人)が性格の弱さに結びつけがちな、弱々しい諦めの微笑とも混同してはならない。それは入念に、長い年月のあいだに洗練された一つの作法なのである。」
「もっとも気持のいい顔は、微笑した顔である。それで、両親や、身内や、先生や、友達や、好意を寄せてくれる人たちに、いつもできるだけ、気持のいい顔を見せるのが、生活のしきたりなっている。(中略)たとえ、胸が張り裂けそうなときでも、雄々しく微笑するのが、社会的義務なのである。これに反し、深刻な顔をしたり不幸な顔をすることは、自分に好意をもってくれる人に不安や苦痛をあたえるため、非礼にあたる。」
つまり、自分の不幸を耳に入れることで相手を不安にさせたり心配させたりしないように、自己を抑制した礼節なのだという。そして自分の過失を咎められた際に浮かべる微笑も、決して無神経さや横柄さ、ましてや卑下の表れなどではない。
先ほどの車夫が微笑したのは、自身の落度を理解し、「罰を受けることも当然である。決して殴ったことを恨みがましく思ったりはしない」という意思を示すためである。
車夫の微笑が友人の気をしずめたのは、それを直観的に友人が理解したからである、と八雲は意味づけた。

なるほど、当時はそうであったろう。
では、現代日本人の私はどうだろうか。
現代を生きる私と、明治期の日本人を対比させてみる。
私なら、胸が張り裂けそうな時は、我慢せずそこそこ辛い顔を周囲に見せる。吐き出すことで気持ちを浄化しようとするかもしれないし、共感してもらうことで自己肯定感や安心を得ようとするかもしれない。それが、相手に心配をかけてしまうとしても。
八雲がそんな私を見たら、日本人の美徳である利他の精神が薄く、西洋人に近い日本人というだろうか。

八雲が日本の土を踏んでから129年。
その間に、日本は西洋に学びながら産業化を推し進め、政治や社会、秩序を大きく転換させた。否応なくそこで生きる人民の道徳や気風、価値観も変容したであろう。
八雲はこの変容を予見していた。
「文明の根底をけっして愛他精神の上に置いていない国々と広汎な産業競争をせざるをえない日本」と明治期日本が置かれた状況に理解を示しつつも、利己的な個人の欲求の追求という原理に立脚した西洋流の制度を日本が採用し続けるならば、道徳的衰退を招くことを指摘した。

そして、『日本人の微笑』の最後を、「いつか日本は古い日本を振り返ることがある。その時に、祖先が持っていた素朴な歓びを受け入れる能力、純粋な生の悦びに対する感覚、はるか昔の自然との愛すべき聖なる親しみを、懐かしむようになるだろう。世界がどれほど、光にみち美しく見えたかを思い出すだろう。そしてもっとも驚嘆するものは、寺の門前にある地蔵さまの顔に浮かんだ神々しくも温かな笑みのような、神々の温顔ではなかろうか。その微笑こそが、かつての日本人の微笑にほかならないからである。」と結んだ。

私は冒頭の車掌の微笑を思い出した。
客が明らかにガッカリ、不満げにしている状況で笑うところを、もし明治期の西洋人が見たら、「客を馬鹿にしているのか」と怒るのかもしれない。けれど、私はその微笑を見て落ち着いた。車掌の笑みに「十分な数を用意できず不便な思いをさせて申し訳ない」という感情を瞬間的に見たからである。
車掌自身が本当にそう思って微笑したのかはわからない。
反射的にそうしたのかもしれない。
しかし、私の瞬間的な解釈の根っこには、また車掌の反射的微笑の根っこには、八雲が愛した日本の面影が残っているのではないか。
そうも思うのだ。

(柳美里)

日本人の微笑』新潮文庫

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