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今月の1冊

2020年07月14日

野村 克也『野村克也、明智光秀を語る』

野村克也、明智光秀を語る
著:野村 克也 ; 出版社:プレジデント社; 発行年月:2019年12月; 本体価格:1,300円税抜

プロ野球がようやく先月18日に開幕となりました。年明けからのコロナ禍でめまぐるしい日々を送ってきたからでしょうか、プロ野球界で名将、知将と讃えられた野村克也氏が天に召されたのが、まだ今年の2月のことだということの実感がありません。「口は悪いが心根が優しい」ノムさん(野村監督の愛称)ですから、プロ野球の現状はもちろん、全国高校野球選手権大会の中止など新型コロナウィルス感染拡大の影響を空の上で心配されていることと思います。

私は子供の頃、両親の影響もあり、ヤクルトスワローズのファンでした。毎年最下位の座をタイガースと争う弱小ぶりに、ファンが負けることに慣れ、イケメンバッターの豪快な三振がある意味名物となって中で就任された野村監督。子供心に「なんだか怖いおじさんやってきた」というのが正直な第一印象でした。

しかし、ID野球という名のもと日に日に強くなるチーム、勝つ毎に輝きを増しどんどん格好良くなる選手達の様子に、野村監督へのヒーロー性を感じ、大好きになりました。ノムさんの名言の1つである「念ずれば花開く」をサイン色紙に書いてもらったほどです。

ヤクルトスワローズの優勝、日本一の実績とともに、ノムさんのチーム作りやリーダーシップの技量は誰もが認めるものとなり、その後、阪神タイガース、楽天と監督を歴任していきますが、出版オファーも途切れなかったのでしょう、多数の著書も精力的に執筆されました。ビジネスパーソンの皆さんも、1冊は手に取られたことがあるのではと思います。

その中で、亡くなられる少し前の昨年末、歴史愛好家でもなく、「野村克也-野球=ゼロ」と自己評価をされるノムさんが、珍しく歴史について語られた本を出版されたのをご存じでしょうか。
『野村克也、明智光秀を語る』というタイトル通り、明智光秀の生涯をノムさん流で考察するという1冊です。

知将が語る知将

ノムさんが初めて歴史の世界に踏み込んだ1歩は、明智光秀。発売が昨年末なので、出版社の意図は大河ドラマが始まる「時期」を狙ってのことは明確ですが、ではなぜノムさんがこの話を引き受けたのか。
関西出身やなにくそ根性からのイメージから言えば、光秀より秀吉の方が近いのではとも思えますが、ノムさんがこの1冊を出す意義を感じたとすれば

  • 自身の境遇との一致点
  • 現代人の多くが明智光秀になり得るから

ではないかと考えました。

まず、ノムさんと光秀の共通点。
明智光秀は40歳を過ぎるまで、ほとんど記録がないと言われています。明智の家は美濃一帯の守護大名であった土岐市の一族の流れを組む血筋でしたが、光秀が29歳の頃、齋藤道三を継いだ齋藤義龍の明智城侵略で美濃を追われてしまいました。その後は浪人となり各地を転々とし、朝夕の食事にも事欠く貧しい生活を強いられたようで、記録に残すようなこともなかったのだと思います。

ノムさんも同じく、幼少から恵まれたとは言えない環境でした。3歳の時に父親が戦死した後、母一人兄弟二人。当時の日本の状況では貧困生活を強いられざるを得なかったようです。プロ野球選手になったのも、「母親にこれ以上生活の苦労をさせたくない、親孝行をしたい」。という想いから。しかし、甲子園で華々しく活躍したこともないため、球団から直接オファーが来るわけもなく、自ら入団テストを受けてのプロ入り。それも、球団としては、ブルペンキャッチャー要員での採用だったそうです。その逆境を乗り越えるため、他の人より何倍もの根性と努力し、たった入団4年でホームラン王になったという素晴らしい経緯があります。41歳で信長に才覚を認められて家臣になるまで、苦労の日々があった光秀。信長の元、わずか4年で城持ち大名となった光秀。自分を重ねられるところがあったのではないでしょうか。

また、同じように苦労人といえる豊臣秀吉は、一見ノムさんと似ているようにも思えますが、派手さという点でノムさんとは大きな違いがあります。光秀は、教養のある武将と言われ、秀吉のような派手さもなく堅実で、信長のように天才的な感覚だけで推し進めるのではなく「想像して、実践して、反省する」というように着実にPDCAを回して戦略やチームを進化させていくタイプ。ノムさん自身も「沈思黙考で思慮深いタイプのリーダー」と評している光秀の方が自分との近さを感じたのではないでしょうか。(ただ、おそらく、ノムさんが憧れたのは秀吉だったかもしれませんが)

実際、著書の中でも、「光秀も弱者、私の人生も弱者」「『その他』か始まった人生、私には光秀の心がよく見える」と語っています。たとえ歴史に詳しくなくても、心情が分かれば光秀の人生をともに歩いていける、いや、心情が分かるからこそ、光秀の人生を紐解いてみたいと考えたのではないでしょうか。

人は皆、明智光秀である

では、ノムさんが明智光秀の人生から何を感じ得たのか。
ノムさんは、本書に留まらず、日頃からご自身を、華々しい長嶋茂雄さんなど比較しながら「自分は弱者であり、弱者の流儀で生きてきた」と評してこられました。明智光秀についても「彼もまた弱者の流儀で這い上がってきた」と語っています。ただ、それは自分だけではなく、多くの人が共感を得る点ではないかと考えているようで、本書でも「光秀の心は、気持ちのパノラマのようである。挫折、苦悶、光明、苦渋、抜擢、期待、羨望、絶頂、苦悩が横たわる」と述べています。時代は違えど、誰もが光秀が抱いたであろう感情に覚えがあり、身近に感じられる人物像、それが明智光秀ではないかというのです。

それは、有名なホトトギスを読んだの句にも現れているのかもしれません。

織田信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
短気な気性で、自分の考え=正義を押しつける強烈なリーダーシップ。間違いなく天才肌ではありますが、現代に信長公がいらしたら、完全にパワハラでアウトです。

豊臣秀吉は「鳴ぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
知恵者で自分に自信があり、下級身分から下克上を達成したスーパーマン 的な存在。現代では秀吉と同等のハングリーさを持つことは難しいかもしれません。

徳川家康は「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
幼少期から青春時代まで人質として過ごし、その後も信長に息子の殺害、秀吉には三河から江戸へ移転を命じられるなど理不尽な思いの数々、苦労に苦労を重ねた上での天下を手中に収めた人。時代を超えてもここまで我慢強い人はなかなかいないのではないでしょうか。

というように、いずれの三人もどちらかというと「選ばれし者」という存在であることがたった1句でも伺えます。

それに対して明智光秀は
「鳴かぬなら 放してしまえ ホトトギス」
「鳴かぬなら わたしが鳴こう ホトトギス」
と、諸説はありますが、いずれも誰もが選択できそうなものではないでしょうか。

明智光秀をどこにでもいそうな人と片付けているのではありません。
信長の家臣となった後、いわば中途入社である身の遅れを少しでも埋めようと、信長のため猛烈に働き、信長の家臣でありながら将軍足利義昭の近臣でもあるという珍しいW君主の利点を活かし、信長による義昭の傀儡将軍という形を支える存在感を出したり、明智家家臣団の強固なチーム作りで信長の丹波攻略に大きな貢献をしたことは光秀の苦労、努力の賜以外のなにものでもありません。実際に当時の信長の明智光秀への信頼は、生え抜きの家臣を差し置いて絶大なものだったと、さまざまな歴史的記録からも読み取れます。

ノムさんの「彼もまた弱者の流儀で這い上がってきた」という言葉は、明智光秀が自分自身を「選ばれし者」ではないことを十分に理解した上で、選ばれし者ではない自分が這い上がる術を考え、必死に生きてきたということではないでしょうか。そしてそれこそが、ノムさんが本書において「人は皆、明智光秀である」という一言で表現したかったものなのかもしれません。

光秀はなぜ、謀反を起こしたのか

歴史上の最大級のミステリーである、本能寺の変。
なぜ明智光秀は信長を討ったのか、はさまざまな物議を醸していますが、原因の1つとして考えられている有名なエピソードは、信長による光秀の折檻。宿敵武田勝頼を天目山の戦いで滅ぼし、天下統一事業において大きく前進した織田軍は勝利の宴を開き、皆上機嫌だったの中、光秀から信長への「上様、我らも年来骨を折り、ご奉公した甲斐がござった」という一言。これまで信頼関係を築いてきた二人の関係性が一転し、信長が烈火のごとく怒り、「おまえがいつどこで骨を折ったというのか!」と、家臣達の目の前で激しく折檻したと言われています。
大きな成功を収めたばかりの信長、光秀双方に奢りがあったのでしょうか。これを機に二人の関係性は悪化、本能寺の変へと急展開していきます。

光秀は、自分の功績を認められなかった悔しさだけで主君を討ったのでしょうか。それとも、心から信頼していたからこそ、信長のひどく一方的な振る舞いに、信長の家臣の一人として目指していた天下布武の歪みを感じ、国の行く末を嘆き、命をかけてでも信長の暴走を止めようと考えたのでしょうか。

自分のためなのか、国のためなのか。いずれにしろ、ノムさんは、知将と言われた光秀なら、謀反とは別の道があったのではないかと考察しています。それは、ノムさんが選ばれし者ではない弱者にとって、欠かせない大事な視点の1つとして「洞察力」を上げているからです。

信長に対する自分への信頼感にしろ、信長が目指す世の行く末にしろ、信長の言動で疑心暗鬼になったのであれば、冷静に、本質と原理原則に立ち返るべきだったのではないか。「敵は本能寺ではなく、(実は)我にあった。」ノムさんは、弱者の流儀でのしあがってきた光秀が、最後には自分の弱さに負けてしまったのではと分析しています。

歴史を学んで悲劇を繰り返さない

「人は皆、明智光秀である」と言われても、天下統一を目指していた主君との蜜月と事態の急転は、現代では経験できるものではありませんが、考えてみれば、オリンピックイヤーで誰もが高揚していた時に、新型コロナウィルス感染拡大で生活や未来が一転してしまったのは、光秀のように思ってみなかったこと、青天の霹靂ではないでしょうか。

先行き不透明の中で耐える日々では、さまざまなことに対して疑心暗鬼になりがちですが、明智光秀のように本質を見落としてしまったゆえの悲劇を生まないようにしたいものです。現代にも麒麟が来ると信じて。

(藤野あゆみ)

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