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今月の1冊

2020年09月09日

太宰 治『津軽』

名著初版本複刻太宰治文学館『津軽(小山書店版)
著:太宰 治 ; 出版社:ほるぷ出版; 発行年月:1992年6月;

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめていたい
どこか遠くへ 行きたい

夏の頃からデューク・エイセスのあの歌声が、脳内で繰り返し響き、止まらなくなって参りました。旅控えのせいでしょうか…これは宜しくないですね。
こうなったらTravelling Without Movingと洒落込むしかありません。
動かずに旅に出る方法の定番といえば、読書。
素直に、今訪れたい地をあつかった本を選ぶことにしました。
それが『津軽』です。

本州北端、津軽半島。
大変な早さの撥さばきで魂を掻き立てるような津軽三味線が有名で、その音色聴きたさに何度でも津軽へ伺いたい私ですが、ほかにも、桜の中に浮かぶかのようにたつ弘前城、津軽富士ともいわれる姿美しき岩木山、広がる林檎畑など、旅人を惹きつけるものが沢山あります。
しかし、そこで生まれ育った方が一度都会の色に染まり、世間に揉まれた大人になってから地元を巡ると、ちょっと違うものが見えてくるようです。

『津軽』を書いたのはあの太宰治、本名、津島修治さんです。
当時の津島家は「金木(現在の五所川原市)の殿様」と呼ばれるほどの大地主だったそうで、修治さんはそちらの六男さんでした。

 津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言はれてゐたし、私も生きてゐるうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて

と、大戦下の昭和十九年、三十代中頃の春、ひとり、上野発の急行列車に乗り込みます。五月だというのに、思いがけない寒さに震えながら青森の駅についたのは翌朝の八時。昔、津島家で鶏舎の世話をしていたT君が迎えに来ていました。

「和服でおいでになると思つてゐました。」
「そんな時代ぢやありません。」私は努めて冗談めかしてさう言つた。
 T君は、女のお子さんを連れて来てゐた。ああ、このお子さんにお土産を持つて来ればよかつたと、その時すぐに思つた。
「とにかく、私の家へちよつとお寄りになつてお休みになつたら?」
「ありがたう。けふおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行かうと思つてゐるんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになつてゐるやうです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」

 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、といふ私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこつて、さうして鉄瓶には一本お銚子がいれられてゐた。

こうして旧知の人々や親族を訪ねてまわる太宰の旅が始まります。

行く先々で歓迎を受ける太宰さん。はしゃいでみたり、気を使ってみたり、余計なことをしたと後悔してみたりと、心が騒がしいまま、多くの人と交流を重ねていきます。
お酒を自由に手に入れることができない時代であったにもかかわらず、とにかく待ち受ける友人知人親類がお酒、ビールを用意して待ち構えています。さらに白米のごはんや名産のカニを、さあ食べろ、と勧めてくれます。

いつの世だつて、人間としての誇りは持ち堪へてゐたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行つて、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴へるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑して取扱ふやうになつたといふ噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。

と最初は毅然としていた…というより「武士は食わねど高楊枝」を決め込み、都会人の矜持をもって乗り込んだ太宰さんですが、蟹田、外ヶ濱、龍飛、実家の金木と旅が進むうちに、痩せ我慢はどこかへ飛んでいってしまったようです。とにかく、気づけば飲んでいます。ハイキングに行っても飲んでいます。無くなれば知人の家に立ち寄って分けてもらって飲んでいます。お酒が大好きだったそうですね、太宰さんたら。

けれど、無遠慮にただ楽しく飲んでいたわけではないようです。
長兄の家族と次兄がいる実家へ立ち寄った時、彼らが飲みながら待つ部屋へ誘われると、こんなことを考えます。

 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかつてゐない。(中略)
「失礼ですが、どなたです。」(注:長兄の長女の)お婿さんは、無邪気さうな笑顔で私に言つた。はつと思つた。無理もないとすぐに思ひ直して、
「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑ひながら答へたが、しよげてしまつて、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかつたかしら、と卑屈に気を使つて、次兄の顔色を伺つたが、次兄は知らん顔をしてゐるので、取りつく島も無かつた。(中略)
 金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。

太宰さんは常々、自分は他の兄弟と何かが違うと感じていたようです。友人よりも兄弟に気を使い、場の空気が悪くならないように振る舞い、何を言ってもぶざまな結果になると自嘲します。
家族によって関係性は様々ですが、例え仲がよかった兄弟でも、家を出てそれぞれが家族を作り、子供時代とは違う顔や役割を持つようになれば、久しぶりの再会で距離感に戸惑うこともあるでしょう。
しかし、太宰さんのそれは、もっと根本的な違いを兄弟との間に感じての、鬱屈した思いだったようです。
それを実家で再確認した彼は、津軽地方の西海岸に向かい、木造を訪れました。その町には、県会議員、貴族院議員を務めた父の生家がありました。立派な人物で子供たちに厳しかった父。しかし、生家の作りや庭を見て、父が生家に似せて婿入り先である金木津島家の屋敷を作り替えたことに気づき、太宰さんは「父の“人間”の部分に触れることができた気がする。来たかいがあった」と満足します。
出版社からの依頼で、新風土記の津軽編を執筆すべく旅立った太宰さんですが、そこは彼のこと。ただの取材旅行になるわけもなく、自分自身のルーツをたどり、自分とは何者なのかを探る旅になっていることが読者の私にも伝わってきます。

このあと、足は小泊に向かいます。そこには自分の母だと思っている越野たけさんがいるのです。彼女は津島家に仕え、太宰さんが三歳から小学校に入る頃まで親代わりとなって育ててくれた人でした。三十年も逢っていないその人を求めて、初めての土地を歩きまわり、ようやく再会できた時、彼は「生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい」と、静かであたたかな穏やかさに身を浸すことができたのでした。それは道中、兄弟や祖母にあっても感じることのないものでした。
そこで太宰さんは気づきます。いえ、再認識したのかもしれません。

私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。

上品で模範的、勤勉に生き、津軽の広い範囲に名を知られ人脈を持つ兄達と、彼らが守る名家。彼らと交わることのない生き方をし、だからといって反発して離れるわけでもない。受け入れられたい、愛されたいと願いながらも、そんなことを思う自分を憎む。そんな揺れる心を持った太宰さんにとって、故郷を旅することは、どういう意味を持ったのでしょうか。

自分が何に喜び、何を嫌うのか。どんなに醜いが人間らしい感情を持ち、少年のままの心を持つのか。自分の内面について、旅の間中、太宰さんは書き続けています。自分自身の欲望や、その欲望の根っこにある本質と向き合うのは、それだけでも苦しく、目をそむけたくなることもあるでしょう。それを太宰さんは、時には愛情、時には苦悩をもって赤裸々に書き起こし、折々にユーモアもまじえて、心の風景をつまびらかに披露しました。
自分の根本を暴き、周りに知らせてしまうことで、太宰さんは何をしたかったのでしょうか。もしかしたら、自らを縛る縄のような何かへの囚われや苦しみを断ち切りたかったのかもしれません。本当のところは太宰さん自身しかわからないながらも、たけさんとの邂逅でひと時の心の安息を得られたことにホッとさせられます。
そんな自己探求の旅でもあった本作品は次の言葉で終わります。

まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

楽しいけれどもつらく、えぐられるような旅の末に、太宰さんが私たちに投げかけた言葉。
噛みしめながら、今月の動かない『津軽』旅はこれにてお幕です。

(柳 美里)

名著初版本複刻太宰治文学館『津軽(小山書店版)
著:太宰 治 ; 出版社:ほるぷ出版; 発行年月:1992年6月;
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