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江國 香織『物語のなかとそと』

2021年07月13日

物語のなかとそと
著:江國 香織 ; 出版社:朝日新聞出版(朝日文庫); 発売年月:2021年3月; 本体価格:620円

 江國香織の書く女のひとになりたいと思っていた。洒落たバルコニーのマンションで絶望と暮らしたり(『ウエハースの椅子』)、すねに傷持つ者同士で寄り添ったり(『きらきらひかる』)する彼女たちは、気弱に見えて強かで、頑固なようでしなやかだ。江國香織の書く女のひとになりたいと思っていた。高校生の頃。

 何人もの魅力的な女性たちを生んだ江國香織の20年分の散文集『物語のなかとそと』が、ことし文庫になった。エッセイと短編小説が、「ここまでは事実」「ここからはフィクション」とはっきり線引きのされぬまま、ひとつに綴じられている大変危険な本だ。そしてこういう危険は、今の私たちには必要なものだ。何が本当のことかなんて、誰も教えてくれないのだから。持ち運びやすくなった江國香織の言葉たちは、電車で、カフェで、枕もとで、私を心の底からうっとりさせる。例えばこんなふうに。

『つめたいよるに』は理論社から、柳生まち子さんの美しい絵の入った美しいかたちで出版されたので、非常に嬉しかった。でも、原稿を書かせてくれるのはあいかわらず「飛ぶ教室」だけで、私はあいかわらずふらふらと、アルバイトをしたり旅をしたり見合いをしたりしていた。

 小説家として活動を始めたころ、まだ仕事がそう多くはなかった彼女が、当時の生活を振り返った一文である。「ふらふらと」と形容しているけれど、アルバイトと旅と見合いを並列で語ることそれ自体に、ある種の強さというか、バランスの良さを感じる。そしてそれは、彼女の書く女のひとたちに共通した、美しさだ。当時本人がどんな気持ちで生きていたのか私は知る由もないけれど、でも自分の人生をどう書くかはそれをどう解釈するかにごく近いことだと思うので、やっぱりその軽やかさには、感服するしかないのだ。

 江國香織の小説には食事のシーンがよく出てくる。登場する女性たちは―実はこれは女性に限らない、だから「ほとんどの登場人物は」という方がより正しい―、「好き」「美味しい」と素直に口にしながら食べる。赤い包みのリンツのチョコレート(『神様のボート』)とか、きゅうりのサンドイッチ(『落下する夕方』)とか。江國香織によって描かれる食べ物は、単に美味しそうなだけでなく、どこか儀式めいた神聖さを感じるのだ。『物語のなかとそと』においても、それはあちこちに見て取れる。私は特に、彼女が大好きなパンについて語るとき、子供時代の思い出を振り返るこの一節が好きだ。

子供のころ、パンはトースターではなく、電熱機で焼いていた。そのほうが、水分が逃げないのでおいしく焼ける。コイル状の電熱機と焼き網とのあいだに置く木の枠は、祖父の手製だった。新しいものが好きで手先が器用で、植木についた毛虫も平気で踏みつぶしてしまえる祖父が、私は大好きだった。

 食べることは繋がることなのだと、この一節で気付かされる。自分や誰かのために料理をしたり、誰かから食べ物をもらったり、あるいは一緒に食事をしたりするとき、私たちは家族と、恋人と、友人と、世界と、繋がることができる。江國香織の書く女のひとたちは、食事をするとき、味そのものだけでなく、つながりの深みを味わっているような気がする。誰かといても、独りであっても。

 高校を卒業して10年以上も経つ。新人だからで済まされない程には経験を積み、中堅と胸を張るには頼りなく、思春期の延長戦をいたずらに消費するような感覚に付きまとわれている。仕事終わり、改札の読み取り部分に家の鍵を当ててゲートに激突、週末は表参道のカフェに入るも680円のカフェオレにドギマギしている。こんなの全然江國じゃない!高校生の頃の自分はがっかりするだろうか。彼女たちの持つ気持ちの軽やかさと繋がりの深さ。そこに至るには、一筋縄ではいかないのよと、教えてあげたい。

 今日は早く仕事が上がれそうだ。冷蔵庫にいただきものの上等なハモン・セラーノがある。少し硬くなってしまったけれどバケットも。姉と行ったスペインを思い出しながら食べる。「美味しい」と口に出して食べる。あれはいい旅だったな。力強く生き生きとした芸術品をたくさん見た。ホテルの装飾が少し不思議なのも良かった。仕事を10日も休んだので、帰ってきたあとは大変だった・・・そうだ、私は今も、江國香織の書く女のひとになりたいと思っている。

(内田紫月)

物語のなかとそと
著:江國 香織 ; 出版社:朝日新聞出版(朝日文庫); 発売年月:2021年3月;

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