今月の1冊
2026年10月13日
私撰(新)世界三大交響曲
「世界三大料理」に「世界三大宗教」。こうした「世界三大○○」は数多くあり、私の趣味であるクラシック音楽にも「世界三大交響曲」があります。それは
- ベートーヴェン《交響曲第5番「運命」》
- シューベルト《交響曲第7番「未完成」》
- ドヴォルザーク《交響曲第9番「新世界より」》
の3曲です。
先月(2026年9月)にもサントリーホールで「三大交響曲」と銘打った演奏会が開催され、この3曲が演奏されています。この3曲の組み合わせは、今でも日本ではしっかりと定着していることがわかります。
しかし、ご存じでしょうか。
実は「世界三大交響曲」は音楽学上の正式なランキング、つまり世界中の音楽学者が集まって、「交響曲の最高傑作は、この3曲です」と決めた曲ではありません。
「三大〇〇」のほとんどは日本国内で勝手に決められたもので、昔から「三大○○」という括りや「○○番付」のようなランキングが好まれてきた日本ならではの「組み合わせ」です。(ちなみに誰が、あるいはどんな組織がこの3曲を世界三大交響曲と呼び始めたのかは、私が調べた限りではわかりませんでした。
確かに「運命」「未完成」「新世界より」は誰もが知っています。
「運命」は、冒頭の「ダダダダーン」。
「新世界より」は、第2楽章の「家路」。下校の音楽として今でも定番です。
そして「未完成」は、あの冒頭から漂う、なんとも言えない哀愁。
どれもクラシックをあまり聴かない人でも、一度は耳にしたことがあるでしょう。
この3曲は、「覚えやすい」「哀しい」「美しい」「ドラマがある」という、日本でクラシック音楽が普及するうえで非常に強い要素を持っていたと言えるでしょう。だから、「クラシック音楽への入口」という意味では、この3曲は非常によくできた組み合わせなのだと思います。
しかしこれらが「世界三大交響曲」に選ばれるにあたっては、従来からいくつかの批判がありました。
「確かにどれも名曲だ。しかし交響曲というジャンルであればモーツァルトやマーラー、ブラームスが入っていないのはおかしい」といった「作品の知名度と偉大さの混同」という視点での批判。
また「未完成の作品が入っているのはダメだろう」というもっともな批判もあります。
実のところ未完成の交響曲はシューベルトの7番以外にも、マーラー(10番)やブルックナー(9番)など、今でもよく演奏されている名曲があります。
私自身も、ベートーヴェンなら9番「合唱付き」、シューベルトは8番「グレート」の方が「三大」にふさわしい名曲だと思いますし、またドヴォルザークよりはやはりマーラーやブルックナーの方が…と考えてしまいます。
しかし「この3曲が知名度だけで選ばれたわけではない」という前提に立ち、かつ「日本ならではの三大」という視点で考えてみると、ある仮説が見えてきました。
「交響曲を聴くことで得られる体験は概ね3種類に分類できるのでは?」
「そしてその体験とは「劇」「詩」「歌」では?」
まず最初のポイントですが、交響曲には、物語のように展開していくものがあります。
それは「劇」。
確かにベートーヴェンの5番「運命」には、全4楽章を通したドラマ=劇があります。
次に、言葉(歌詞)がないのに、風景や世界が浮かび上がってくるものがある。
それは「詩」。
シューベルトの7番「未完成」の美しい単調の旋律からは「人間の内面にある孤独や哀しみ」という「詩」を感じることができます。
そして最後に、旋律そのものが人間の感情を歌っているように聴こえるものがある。
それは「歌」。
チェコの出身であるドヴォルザークがアメリカの大学から招聘され、ヨーロッパの伝統と祖国チェコの民族音楽、そこにアメリカの黒人音楽や先住民族のリズムなどからの刺激も融合して創造した「新世界より」。
「クラシックなのに、なんか親しみやすい」この曲にはまさに「歌」があります。
さて、この「劇」「詩」「歌」という三大交響曲のコンセプト。
このコンセプトはそのままに、新たな三大交響曲を考えると?
クラシックオタクなら当然そう考えます。
ということで私なりに「私撰 (新)世界三大交響曲」を考えてみました。
ちなみに極力「個人的な好み」は排除したつもりです(笑)
第一の交響曲――「劇」
◆ マーラー《交響曲第2番「復活」》
「劇」と聞いて、最初に思い浮かぶ交響曲はいくつかあります。
ベートーヴェンの《運命》や9番もそうでしょうし、ベルリオーズの《幻想交響曲》も、まさに音楽による劇です。
しかし今回の「新三大」では、マーラーの《交響曲第2番「復活」》を選びたい。
なぜなら、スケールが違うからです。
《復活》の中心にあるのは、「人間は死んだらどうなるのか?」という問い。
第1楽章は巨大な葬送行進曲のように始まります。
そこから、
死。
苦悩。
思索。
祈り。
そして最後に「復活」。
第5楽章では、オーケストラだけでなく、ソプラノ、アルト、合唱まで加わります。
マーラー財団によれば、《復活》は1888年から1894年にかけて作曲され、1895年にベルリンで初演されました。
つまりこれは、単なる「きれいな交響曲」ではありません。
一人の人間が、生と死という究極の問題と格闘する巨大なドラマなのです。
ベートーヴェンの《運命》が「苦悩から歓喜へ」という劇だとすれば、マーラーの《復活》は、さらにその先、「そもそも、生きるとは何なのか?」を問いかけてきます。
だから私は、この曲を「劇」の代表にしたいと思います。
おすすめの演奏ですが、私はクラウディオ・アバド指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団のライブを選びました。
2003年のルツェルン音楽祭での演奏で、ソプラノ、メゾソプラノ、合唱を含む全曲を聴くことができます。
マーラーの巨大な音楽が、最後の「復活」に向かって積み上がっていく、まさに「劇的」な感覚を、ぜひ体験してほしい演奏です。
第二の交響曲――「詩」
◆ シベリウス《交響曲第2番》
次は「詩」。
ここにはシベリウスの《交響曲第2番》を置きたい。
この曲の面白さは、「何も具体的に説明していないのに、何かが見えてくる」ところです。
森。
湖。
風。
雪。
夕暮れ。
孤独。
そして、最後に差し込んでくる光。
もちろん、これらは私たちが勝手に想像しているものです。
シベリウスが「これはフィンランドの森を描いた曲です」と説明しているわけではありません。
だからこそ「詩」なのです。
詩は、すべてを説明しません。むしろ、言葉を削ることで、読む人の頭の中に風景を生み出します。俳句などもまさにそうです。
シベリウスの音楽にも、そんなところがあります。
小さな旋律の断片が現れ、それが少しずつ積み重なっていく。
そして最後には、巨大な風景が開けてくる。
《第2番》は1901年に作曲された作品で、現在でもシベリウスの交響曲の中でも特に親しまれている一曲です。
私はこの曲を聴くと、「音楽は、言葉を使わずに詩を書くことができる」と思うのです。
だから「詩」ではこれを選びます。
おすすめの演奏ですが、ここはシベリウスの音楽を知り尽くした指揮者、シベリウスと同じフィンランド出身のオスモ・ヴァンスカ指揮、ラハティ交響楽団の演奏で。
ヴァンスカのシベリウスは、単純に「北欧の美しい音楽」として流してしまわないところが魅力です。鋭さもあり、厳しさもある。その中から、最後に大きな光が開けてくる。
シベリウスを「自然描写」としてだけ聴くのではなく、一つの精神的な物語として聴いてみたい人におすすめです。
第三の交響曲――「歌」
◆ チャイコフスキー《交響曲第6番「悲愴」》
そして最後が「歌」。
これはチャイコフスキーでしょう。
彼の《交響曲第6番「悲愴」》。私はこの曲を聴くと、「交響曲という巨大なオーケストラで、人間が歌っている」ように感じます。
旋律が、とにかく歌う。
第1楽章には、激しくも切ない旋律が次々に現れる。
第2楽章には、あえて4/5拍子で書かれた有名なワルツ。
第3楽章では、猛烈なエネルギーが爆発する。勇壮に終わるこの楽章が終わった後に、曲が終わったと勘違いして拍手する人がたまにいるのもご愛敬。
そう、フライング拍手からもわかるように、普通ならここで華々しく終わりそうなのに――。
第4楽章は、消えていく。
「悲愴」というタイトルにふさわしく、最後は静かに沈んでいきます。
1893年、チャイコフスキー自身の指揮で初演されたこの作品は、作曲者の死のわずか9日前に初演されたこともあって、後世には「作曲者自身のレクイエム」のように語られることがあります。
ただし、そこは少し注意したいところ。
チャイコフスキー自身が作品の具体的な意味を明らかにしたわけではありません。むしろ、彼はその内容を秘密にしていました。
だからこそ、この曲は「悲しい曲」というだけでは終わらない。
愛なのか。
人生なのか。
死なのか。
絶望なのか。
あるいは、そのすべてなのか。
聴く人によって意味が変わります。
それでも、最後に残るのは一つ。
「歌」なのです。
ドヴォルザークの9番と同様、とてもわかりやすい歌詞のない歌。それが「悲愴」です。
おすすめの演奏としては、やはりロシアものならこの人ということで、
エフゲニー・ムラヴィンスキー 指揮、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の1982年の演奏を推します。
時に激情的に、時に流麗に、ムラヴィンスキーの本領発揮です。
同じ《悲愴》でも、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏と聴き比べると面白いでしょう。
《悲愴》は指揮者によって、まったく違う「歌」になるのです。
というわけで、私の選ぶ「新・世界三大交響曲」は、この3曲とします。
「劇」 - マーラー:交響曲第2番「復活」
→人間は死とどう向き合うのか。
「詩」 - シベリウス:交響曲第2番
→言葉なしに、世界と精神をどう描くのか。
「歌」 - チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
→人間の感情を、どこまで旋律として歌えるのか。
この3曲を選んだのは、
「世界で一番有名だから」でも、「音楽史上、絶対的に最高だから」でもありません。
私が大切にしたのは、交響曲を聴いたときに、何を体験できるか、ということです。
確かに「世界三大」という言葉は便利です。
3つに絞れば覚えやすいし、人にも薦めやすい。
その結果、「まずこれを聴けばいい」という入口にもなる。
だから、昔から「三大○○」が生まれてきたのでしょう。
しかし、音楽に順位をつけるのは、本来かなり難しい。
マーラーの《復活》と、シベリウスの《第2番》と、チャイコフスキーの《悲愴》。
この3曲を「1位、2位、3位」と並べる意味はありません。
それぞれ違うからです。
だからこそ私は、
「三大=ベスト3」ではなく、「三大=三つの代表」
と考えたい。
「劇」「詩」「歌」
この3つを入口にすれば、交響曲というものが、単なる「長いクラシック音楽」ではなく、人間の人生を描き、世界を描き、感情を歌う巨大な表現形式だということが見えてくる。
だからこそ「世界三大交響曲」という言葉は、「世界最高の3曲」を決めるための言葉ではなく、「交響曲の世界に入るための3つの扉」くらいに考えたほうが、ずっと楽しいと思うのです。
さて、あなたなら「劇・詩・歌」にふさわしい、「私撰(新)三大交響曲」にどの作
品を選びますか?
(桑畑)
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