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今月の1冊

2006年11月14日

『無名』

著者:沢木耕太郎
出版社:幻冬舎; 発行年月:2003年9月; ISBN:4344003853; 本体価格:1,500円(税込価格1,575円)
書籍詳細

一昨年の夏、故郷の伯父が亡くなった。81歳の故人を送る葬儀は、“しめやか”というよりは“にぎやか”という形容がふさわしく、通夜の席は、昔を懐かしむ親戚の集まりという感があった。亡くなった伯父の思い出話から、一族が故郷の地に根をおろす嚆矢となった祖父や祖母の苦労話へと話題は移り、やがてその子供である伯父、叔母そして父の人生へと広がっていった。


そういう場の決まり事として、彼らの若い頃の失敗談や各々夫婦の馴れ初めへと話が展開されるにつれて、私は、自分が父の人生、ことに若い時代のことをほとんど知らないことに愕然とした。
昭和2年生まれの父は、戦中戦後の混乱の時代に青少年期を過ごしている。地元の工業学校を卒業したことと、かろうじて徴兵は免れたことは知ってはいたが、何を学び、どのような青春を送り、どんな職業遍歴を経たのかを何も知らなかったのだ。さらに驚いたことは、従姉妹や姉は、私の知らない父の若い時代を、意外にも良く知っていたことだ。どうやら私だけが父のことをほとんど知らず、というよりまったく興味さえも持たずにこの歳まで過ごしてきたのである。
その時、自分の冷淡さに、微かな罪悪感を憶えると同時に、けっして不仲だったわけでもないのに、息子に自分の人生を積極的に語ることの無かった父の心境がなぜか理解できるような気がした。「私と父の距離感は、沢木耕太郎と父親二郎氏のそれに似ているのかもしれない」 2年ほど前に読んだ沢木の『無名』という本を思い出しながら、ふとそう感じていた。
私にとって沢木耕太郎は、格別の思い入れのある人物である。
好きな作家というよりは、「こんな人になりたかった」「こういう人生を送りたかった」といった、“成し得なかった夢”を実現してきた“憧れの人”といった方がよいかもしれない。
沢木とのはじめての出会いは高校生の頃に読んだ『敗れざる者たち』だ。スポーツノンフィクションの金字塔と言われ、後に続く多くの書き手達に影響を与えたという沢木の代表作のひとつだ。その後『人の砂漠』『若き実力者たち』と続く短編集を通じて、私はルポライターという職業やノンフィクションという書籍ジャンルがあることを知った。また彼が、それらのルポルタージュを20代前半で書いていたという早熟さに対して、「ひょっとしたら自分にも出来るのかもしれない」という淡い期待を抱いたものだ。
期待は時を置かずして泡と消えたが、沢木への関心が途切れることはなかった。30代前半には『テロルの決算』『一瞬の夏』といった長編ノンフィクションで数々の賞を取り、ニュージャーナリズムの旗手として確固たる地位を築いたと思えば、40代を前にしてエッセイ集『バーボン・ストリート』を発表し、高い評価を受ける。次は何を書くのかと衆目の期待を集めると、無名時代のユーラシア放浪をまとめた旅行記『深夜特急』を発刊し、それがバックパッカーのバイブルになる。40代には写真家ロバートキャパの伝記や壇一雄の生涯をその妻ヨソ子氏が一人称で語る『壇』を発表して新境地を拓き、50代のいまも旺盛な活動は衰えることはない。
『無名』はそんな沢木の最初の長編小説である。正確に言えば、ほぼ同時期に着手し、先に世に出ることになった沢木初の書き下ろし小説『血の味』と対をなす作品である。自らの人生や家族を語ることの少なかった沢木が、父親の最期を看取る、夏から秋にかけての出来事を綴った静かな物語である。
小脳の出血に肺炎を併発した89歳の父二郎氏は、「これが最期かもしれない」という医者の警告の中で入院した。沢木は姉妹達と交代で、その病床に付き添うことになったが、父親は混濁と覚醒を繰り返しながら、少しずつ衰弱していった。
沢木の祖父は、一代で大きな財をなし、父二郎氏が生まれたころは、東京で通信機器会社を経営していたという。二郎氏は、年の離れた兄と二人、何不自由のない裕福な暮しの中で育った。文学をこよなく愛し、旧制高校的な教養主義にどっぷりと使ったインテリであった二郎氏には、教養はあったが、生活力に乏しかった。祖父の死後、兄に委ねられた会社は、信頼していた番頭の裏切りもあって、たちまちのうちに傾き、兄に寄生しながら優雅な日々を送っていた二郎氏一家も、昭和の早い時期には困窮した境遇に陥ることになる。その後は、工場の雑役夫の仕事と妻の内職でなんとか生計をたてながら、古本屋で求めたゲーテやツルゲーネフを友に、毎夜一合の酒をささやかな楽しみとする。そんな暮しを続けながら耕太郎を含め三人の子供を育てたという。
沢木は、父の最期を覚悟するにあたり、自分が父親の青年時代をまったく知らずに今日に至ったこと悔いて、なんとか父との対話を試みる。しかし、かつて博覧強記とされ、稀代の読書家であった父には、すでに多くを語る体力は残されておらず、晩年の一時期に詠んだ数百の俳句だけが父を知る手がかりとなった。
沢木は、父が横たわるベッドの横で、父の作った俳句を一つひとつ繙きながら、父の内部の声を聞こうとしていく。父と過ごした少年期の記憶を辿り、青年期においては自分の旅と父の俳句を重ねてみる。
無数の記憶によって甦らせようとする彼は、父と過ごす最期の時間を慈しむように、父の句を自ら編纂して私家版の句集を編もうと思い立つ。父が寄稿していた同人誌や作句ノートを集め読み、句集に収めるべき句を選定し、タイトルや判型を考案しながら、「父は何を考えていたのか」を追い求め、言葉にかえていく。それは数々のルポルタージュでみせた沢木耕太郎の洞察力が発揮される静かな名場面だ。
例えば、沢木は作句ノートに挟まれた同人誌の切り抜きから、父親が書いた短いエッセイを発見する。「幼時の記憶」と題したその短文は、自作の俳句についてのものだが、『無名』に原文のまま掲載された一文を読んで、読者は文章リズムと発想の仕方が沢木の文章によく似ていることに驚く。その驚きは沢木自身にもあったようで、「父親は自分の文体を真似したのではないか」と錯覚する。しかしそのエッセイが書かれた時期に、沢木はまだ一篇の文章も発表していないことに気づき、父への想いを一層深くすることになる。
やがて沢木は、父が戦後のある時期、小説家で身を立てようとしたことを知る。「小説なら書けそうだ。1年やってダメならあきらめるからやらせて欲しい」と母親に懇願したのだという。しかし父は、半年で「自分には無理だ」とあきらめ、二度とその夢を口にすることはなかった。沢木は、父の俳句や文章から、父に欠けていたものは、ものを書く才能ではなく、自分を信じてあくまでも突き進んでいく野蛮なまでの強さや自分の夢にこだわる執着心であったことを鋭く指摘する。
その視点は、デビュー以来、沢木の作品を通して貫かれている「敗者」への深い愛惜に通じるものだ。沢木は、自らが作品の主人公に据える人物が勝負に敗れたり、人生の歯車を狂わせてしまった敗因を、ある種の弱さや潔さではなかったかと語ることが多い。そして決まって、「その弱さ、潔さゆえに、自分は強く惹かれるのだ」と告白している。
父二郎氏が、作家沢木耕太郎が愛してきた「敗れていった」人々と同じ系譜につらなる人間であることを読者は知ることになるのだ。
『無名』の最終章は、父の死後しばらくして、沢木が、父の生まれた築地を歩く場面である。父が残した「隅田川」という随筆を丹念に読み解きながら、沢木は、最後の追想を深めていくのだ。
沢木は、父が生まれた土地に、かつては聖路加病院や立教大学があり、瀟洒な異人館が立ち並んでいたことを知る。父がなぜ立教中学に進んだのか、なぜ朝食にオートミールを常食する粋な一面を持っていたのか、なぜ父の俳句に異人姿を詠んだものが多かったのかに思いを巡らしていく。
築地から東銀座へと続く道を歩きながら、沢木は父親に連れられて東銀座で映画を見た5歳の頃の記憶を甦らせる。それは沢木にとって、父親と一緒に見た最初で最後の映画であった。そして看病の夜に体験した父親との不思議な会話を思い出す。
その夜、沢木は父との繋がりを確認するかのように、父と二人だけでした行動を思い出していた。凧揚げや野球の試合とともに、父と並んで座った東銀座の映画館の記憶を探り当てた。映画が「遠い太鼓」というタイトルの洋画であったことは憶えていたが、ストーリーはほとんど忘れていた。しかし映画の前に上映されるニュースだけを鮮明に記憶していたのだ。オリンピックのボクシングの試合と思しき映像には、戦おうとせずに必死になってリングの中を逃げ回る選手とそれを追いかける選手の奇妙な様子が映し出されていた。「あれはおかしなシーンだったな」と沢木が思い出し笑いを我慢していると、眠っていたはずの父親が目を開け「あれは面白かったなあ」と声を発したという。寝ぼけているのか思った沢木氏が問い返すと「ほらグルグルと逃げ回って・・・」
その瞬間、沢木は鳥肌が立つような思いがしたという。眠っていたはずの父親が自分とまったく同じことを考えていたことに慄然としたのだ。
最後の場面で、沢木は銀座の街を歩きながら、なぜ自分が幼いあの時の記憶を鮮明に憶えていたのかを考える。
「私はどうして父とのことをこのようにはっきりと覚えているのだろう。あたかも、すぐに別れが来る人との経験を脳裡に刻みつけようとでもしたかのように。もしかしたら、私にとって父は、最初からこの世の人とは思えない存在だったのかもしれない...」
沢木耕太郎の真骨頂ともいえる一文である。
沢木は父の死後、4年の月日を費やして、この『無名』を書き上げた。
無名に生き、無名のまま死んでいった沢木二郎氏は、死後4年を経て、愛する息子耕太郎の手によって世に知られることになる。
父親の死後、沢木が編んだ父の句集には『その肩の』というタイトルが付けられた。
 その肩の無頼のかげや懐手
父の句にあった一節を取り上げたものだ。最初は、着流しに懐手で行く「無頼」の姿を父親が後ろから眺めた様子を詠んだように思えたこの句が、実は父自身の果たし得なかった人生への願望を重ねたものではないかという思いに辿り着いた沢木は、父の句集にこのタイトルを付けたのだ。
沢木は、『無名』の最後を、「もの静かに生き抜いた父の人生こそが「無頼」であったのではないか」と結んでいる。それを記した瞬間、沢木の眼前には、父と息子だからこそ見えた風景が広がっていたのかもしれない。
(城取一成)

『無名』

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