今月の1冊
2007年07月10日
『麦の穂をゆらす風』
監督:ケン・ローチ ; 主演:キリアン・マーフィー ; 2006年英国
[公式サイト] [DVD発売中]
「マッチする つかの間の海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」
かつて寺山修司は、故郷青森へと向かう船上の甲板でこの詩を詠んだという。
「故郷とは何か」「国家とは何か」「国のために命をかけるとはどういうことか」
1960年代“政治の季節”に、多くに若者に影響を与えた天才歌人は、霧深い北の海を見つめながら、「戦争の本質」を考えていた。半世紀前近く前のことである。
時を経て2006年春、カンヌ映画祭パルムドール賞に輝いたケン・ローチは、華やかなセレモニーの場で、50年前の寺山と同じ問いを記者のマイクに向かって発していた。
ケン・ローチという名を初めて知ったのは、映画プロデューサーの李鳳宇氏の講演だった。
2006年5月の「夕学五十講」に登壇した李氏は、自身が扱う映画へのこだわりを「強い映画」であることだと語った。
李氏による「強い映画」とは、
- 卓越した映画制作技術がある
- 時代を超えて通じる普遍性がある
- 人を動かす力がある
という条件を兼ね備えた映画である。
そして、敬愛すべき「強い映画」の作り手として、最初に名を挙げたのが、英国人ケン・ローチであった。
ケン・ローチは、社会派の映画監督として、世界の映画人から高く評価されてきた名匠である。40年近い監督生活の中で、ベルリンやカンヌの映画祭でも数々の受賞歴もある。
一貫して、社会の底辺で生き抜く人々の姿や、自由のために戦う人々への尊厳をテーマに映画を作ってきた。
常に、社会の問題を鋭く見つめる視線を持ち、内部を告発的に抉り出す厳しさが特徴である彼の作品には、安易な妥協や調和的な結末が存在しない。
その厳しさは、時に観客を遠ざける原因にもなっていて、興行的には難しい映画が多かったという。日本では、1993年に李鳳宇氏のシネカノンが紹介するまで、ケン・ローチ作品は一本も公開されてこなかった。
5度目のカンヌで、初のパルムドール賞をもたらした『麦の穂をゆらす風』は、ケン・ローチ監督作品ではじめて、日本を含む世界で興行に大成功を収めた作品となった。
映画の舞台は、1920年、700年以上も続いてきた英国支配の圧政に苦しむアイルランドの南部の村である。
19世紀、アイルランドは主食であるジャガイモが病害による凶作に陥り、大飢饉にたびたび悩まされていた。皮肉なことに、ジャガイモが凶作の年は決まって、麦がたわわに実ったという。麦は、すべて英国に送るために作られていた。
穂先を垂れた麦畑が、谷を渡る風に揺られる光景は、アイルランドの悲劇を象徴していた。
『麦の穂をゆらす風』というタイトルは、この時代にアイルランド人が、英国への抵抗のシンボルとして歌い継いでいた伝統歌にちなんでいる。
この頃、英国からの独立をめざす反政府運動は、地下に潜り、抵抗を続けていた。主人公のデミアンは、医学を修め、ロンドンの病院に職を求めて故郷を旅立とうとしていた。デミアンの兄はレジスタンスの闘士として村の若者を率いるリーダーである。
英国派遣軍は、度重なるレジスタンスに苛立ち、住民への虐待を強めていた。集会は禁止され、母国の言葉を使うことは許されず、英語名への改名を余儀なくされていた。かつて、日本軍支配下の朝鮮半島で見られた悲劇と同じ光景がアイルランドでも行われていたのである。
物語は、葛藤に悩んだ末に、ロンドン行きをあきらめ、抵抗のための戦いに身を投じたデミアンが、兄の指揮のもと、仲間たちとともに戦う姿を描いている。その戦いは、戦争と呼ぶにふさわしくない、小さな抵抗運動である。貧しく、幼く、もの哀しい。戦うための武器を、相手から奪うことからはじまる絶望的な戦いである。
敵兵に囚われた兄は、両手の爪をはがされるという拷問に耐えた。
デミアンは、仲間を裏切った友人を処刑するために、泣きながら引き金を引いた。
デミアンの恋人は、レジスタンスを匿った疑いで家を焼かれ、髪を切り刻まれた。
多くの仲間を失い、心と身体に深い傷を負った頃、突然の静寂が訪れる。アイルランド共和国代表団と英国政府による休戦協定が成立したのだ。
ところが、皮肉にも、それは新たな戦いの始まりであった。
休戦の条約は、アイルランドの自治こそ認めたものの、英国支配下にあることは変わらず、独立とはほど遠い中途半端な内容であった。兄達は、中央の決定を受けて、英国と戦うことを止め、新たな国づくりを目指そうとする。デミアン達は、あくまでも独立を目指して、戦いを継続することを主張する。
二人の対立は、やがて内戦に発展し、悲劇的な結末を迎えることになる。
この映画は、「誰のために戦うのか、何のために戦うのか」という戦いの本質を問うものだ。
デミアンは、裏切りの罪で幼い頃からの友人を銃殺しなければならない場面でつぶやく。
「僕は、解剖学を5年学んだ。なのに、いま彼(友人)を殺す」
「それだけの価値がある戦いだろうか」
デミアンは、祖国のために戦う友人たちを見捨てることができずに、心ならずも戦いに身を投じた。戦いには医者が必要だと訴える仲間の声を受けての決断だった。にもかかわらず、人を救うべき医者である自分が人を殺す。その苦しみは、デミアンの心を深く傷つける。
処刑の後、彼は彷徨うように、丘の向こうにふらふらと歩いていく。アイルランド特有の霧深い湿った灰色の空と、鮮やかな苔の緑のコントラストが心に残る哀しい場面である。
髪を切り刻まれた恋人は、デミアンの胸を叩きながら泣き叫ぶ。
「私は、そんなに強くないの」
「お願いだから私をどこかに連れていって」
かつて、ロンドンに向かおうとするデミアンに、仲間とともに戦うべきだと訴えかけた恋人である。諜報役として危険に身を晒すことを厭わず、デミアン達を支える「勇敢な女性」であったはずの恋人も、圧倒的な暴力の前に屈服する「弱い女性」でしかないことをデミアンは受け止めるざるを得なかった。
なぜなら、彼らは、恋人への虐待を眼前にしながら、何もできなかったからだ。
兵力に乏しい彼らは、直前の戦いで、なけなしの弾丸を使い果たしていた。武器無しで、敵兵の前に立ち向かえば、共和国の数少ない兵士である自分たちが死ぬことになる。兵力温存の責任を持たねばならない兄の制止をデミアンは振り切ることが出来なかったのだ。
ラストで、デミアンは、共和国への反逆者として、兄によって銃殺される。
最後の夜に、デミアンが書き残した遺書には、ともに戦い、命を落とした一人の仲間が残した言葉が綴られる。
「誰と戦うのかはすぐにわかる」
「何のために戦うのかを考えろ」
デミアンにとって、祖国のためにレジスタンスを率いる兄は誇りであり、全幅の信頼を寄せるリーダーであった。兄にとっても、幼い頃から秀才だったデミアンは自慢の弟であり、自分を支えてくれるかけがえのない同士であった。「祖国のために」という正義を同じくしていたはずの二人が、いつしか、その正義のために対立していった。
兄は、自分たちが英国軍と戦うには、絶望的なまでに小さな力しかないことを知っていた。これ以上血を流すことなく、時間をかけて祖国を建設する道を正義と考えた。弟は、独立を夢見て死んでいった仲間のために、そして何よりも自分が代償にした医者の志や、恋人への償いのためにも、独立を目指して戦いを続けることを正義と考えた。二人の対立は後戻りできないところとなり、ついには、仲間を殺し合い、最後には、兄が弟を処刑する。
どこで、何が違ってしまったのか。もはや二人には、それを探ることも許されなくなっていた。
遺書の最後にデミアンは書き記す。
「何のために戦うのか 僕には、いまはじめてその意味がわかった」
しかし、デミアンが死を代償にたどり着いたその答えについて、映画は一切を説明していない。
その答えを観客に投げかけたところで、ケン・ローチは映画を唐突に終わらせている。
正義は、戦う勇気を生む。
戦いは、憎しみを増幅させる。
憎しみは、いつしか正義をも壊してしまう。
アメリカ独立戦争も、ロシア革命も、ベトナム戦争も、およそ全ての「解放のための戦争」「自由のための戦争」の裏側には、無数のデミアン兄弟の悲劇が埋め込まれている。
それが戦争の本質だ。
ケン・ローチが、寺山修司の詩を知っていたのかどうかは定かではない。寺山は、1983年に亡くなっている。『麦の穂をゆらす風』はもちろんのこと、一切のケン・ローチ作品を見ていないだろう。調べてみるとケン・ローチと寺山修司は1936年生まれと1935年生まれの一才違いであった。激動の時代を生きてきた同世代人だったのである。
半世紀という長い時間を経て、英国と日本という遠い距離を隔て、二人の問いかけは、深い霧の中で響き合う。
「誰にために戦うのか、何のために戦うのか」
その問いは、間違いなく現代の我々に向けられているものだ。
(城取一成)
『麦の穂をゆらす風』
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