夕学レポート
2013年04月09日
磯﨑憲一郎「小説と世界の関係」
極めて挑戦的な受け身
磯﨑憲一郎氏の小説の書き方は、いささか変わっている。
最初の一文を決める。何日もかけて一文をひねりだす。
書き出しの時点で決まっているのはただこれだけ。設計図もなければアウトラインもない。プロットもモチーフもない。あるのは最初の一文のみだ。
まあ、ここまではいい。
こういう話はどこかで聞いたことがある。「最初の一文を書けば、あとは勝手にストーリーが展開されるんですよ…」的な小説家の話を、過去のどこかで目に、または耳にしたことがある。
しかし、磯﨑氏が変わっているのはここからだ。
悩みぬいた末に最初の一文を生み出す。その一文には「強度」が必要だ。なぜならこの一文が、小説全体の推進力の源になるからだ。一文を生み出す作業は「ボーリングの球をゴロっと転がす感じ」と磯﨑氏はいう。
ソリッドな一文が生まれたら、次に何がきたら面白いかを考える。そうしてまた、悩んだ末に次の文章を生み出す。すると二つの文章の連なりができる。二つの文章ができたら、次になにが来たら面白いかをまた考える。そして三つ目の文章がひねり出される。四つ目の文章も、五つ目の文章も、同じ生みの苦しみの中から生まれてくる。
こうして出来上がるのが、磯﨑氏の小説だ。
「そこまで書いた部分と相談しながら書いていく。それはまるでセッションのよう」だと磯﨑氏。
それまで書いたものだって自分ものに違いないのに、恐らく放出された文章は、自分とはすでに切り離されたものなのだろう。外側にある蓄積された文章と、自分の内部とが苦しいまでにセッションし、次の一文を生み出すのだ。
この工程を経て誕生した作品には「なぜこんなことを書いたのだろう」と本人も驚くという。
さもありなん、と私も思う。
小説とはなにか。
磯﨑氏はそれを「文章というリニア(直線的)な表現手法をつかった芸術」だと解説する。
小説は、右から左へ、あるいは上から下へ一文字ずつ、一文ずつ、読み進むしかない。
映画のように、複数の要素が同時並行で表現されることはない。絵画のように、一度にすべてを見渡せるものでもない。
ゆえに小説は、読んでしまったものをなかったことにはできない。見逃すことがないのだ。
映画なら、画面の右側に注目するうちに左側も流れていく。また、眠っている間にも映像は進む。
小説は違う。あくまでひとつの文章を目で追うしかない。
眠ったらそこで物語はストップし、再び目を覚ましたら、また途中から一文字ずつ、一文ずつ、読み進んでいくしかない。
そして小説は、それまで読んだものを踏まえて、次を読み進むことしか許されない。読んでしまったことを「読まなかったこと」にはできないのだ。
あくまでリニアに表現されるもの、それが文章、それが小説・・・。
磯﨑氏の明快な説明を聞きながら、私の眼からは分厚い鱗がハラリと剥がれ落ちていた。文章のこの機能に、そして機能がもたらす効果に、生まれて初めて気づかされた。
磯﨑氏の書き方を私になりに表現すれば、「極めて挑戦的な受け身」ということになる。
なにに対して受け身かといえばそれは、リニアな表現芸術である小説の「型」に対して、あるいは小説という存在そのものに対して、芸術に対して、徹底して受け身なのだ。
読者は一文字ずつ、一文ずつ、読んでいくことしかできない。ゆえに磯﨑氏は、一文、一文を命がけで積み上げる。なぜならそれは小説だからだ。
それはもう、いつ死んでもいいというぐらいに、究極なまでに追い込みながら、一つの文章を生み出していくのだそうだ。
映像で表現できるものならば、映像で表現すればいい。
小説だから表現できるものを書きたい。
小説でしか表現できないものを書きたい。
なんと挑戦的なスタイルだろう。
「小説」を信じ切る強さがなければ、このスタイルは到底できない。
これに比べたら、最初に全体のあらましを決め、細部を詰めていく書き方はなんとも楽だろうとさえ感じてしまうが、「作者が予め考えたプロットやストーリーなんてたかが知れている。読者だって先が読める」と笑う。
なんてストイックな人!
“極めて挑戦的な受け身”で生み出された小説は「読む前より(読者の)世界を広げるもの。世界を押し広げるもの」でありたいと磯﨑氏は言う。
読んだあとに世界を肯定的に見られようになる、そんな小説でありたい。その思い、使命感のようなものがなければ小説なんて書けませんよ、とサラリと微笑んでみせる。
商社マンらしい軽快な語り口(磯﨑氏は現役の商社マン)とは裏腹に、身を削って小説を生み出そうとする強さ、苦しさに触れた気がして、私はなんだか胸が詰まる思いがした。
こんな話を聞かされたら、否が応にも好きになってしまう。
今度ゆっくりと、磯﨑氏の小説を読もうと思う。
それは、急いで読むにはあまりにもったいない芸術作品だ。
(松田 慶子)
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