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夕学レポート

2014年03月11日

橋爪 大三郎 「ビジネスパーソンよ、宗教を学べ」

橋爪 大三郎 社会学者 >>講師紹介
講演日時:2013年10月31日(木) PM6:30-PM8:30

ビジネスパーソンが「宗教」を学ぶ意義とは何でしょうか。橋爪氏は、人々の基本的な考え方や価値観、行動様式、生活様式などが宗教によって規定されていることに着目して、宗教を学ぶことで、進出先となる海外の消費者をより良く理解できることにあると主張します。
その国や地域の宗教を知ることで、例えば宗教的に好ましくない名称や形状・色等を製品に採用しないようにしたり、利用してはいけない食材を原材料から除外する、といった適切な対応が可能になります。

そもそも、宗教とは、「同質性」を高める機能を果たしています。同質性というのは、同一の宗教を信じる人々は、ほぼ同じように考え、同じように行動するということです。したがって、同一の宗教を信じる集団・社会では、相手が何を考えているか、どのように行動するかがある程度予測できます。同じ価値観を有していることから、争いごとも減ります。端的に言えば、宗教とは、人々が平和に暮らすことに役立っているというわけです。

さて、橋爪氏は今回、世界の4大宗教の概要を語ってくれました。西ヨーロッパに源を発する「キリスト教」、中東周辺に信者の多い「イスラム教」、インドの「ヒンドゥー教」、中国の「儒教」です。
キリスト教は、教徒の人口が世界で20億を超える世界最大の宗教であり、「GOD」のみを崇める「一神教」です。キリスト教においては、GODが最初の人間である「アダム」を土から作ったとされており、当然ながら、GODは人間ではなく、ずばぬけた能力、知性を有している存在とみなされています。

GODは、天地を作り人間を含む全ての生命を創造したわけですから、全てのものの「主」であり、絶対的な支配権を有しています。
私たちが何かを自分で作ったとしたら、それは自分のものであり、それを壊そうがどうしようが自由であることを同じです。GODのことを「主」と呼ぶのに対して、私たち自身のことは「僕(しもべ)」と言いますが、自分たちの所有者であり支配者であるGODに従うことこそが「信仰」なのです。
ちなみに、一神教と言えば、ユダヤ教や、後述するイスラム教も同じですが、橋爪氏によれば、信じているGODは同じなのだそうです。

天地創造の主、全知全能の存在としての「GOD」という意味で、信仰対象は同じですが、違いは神の言葉を聞くことができ、それを私たちに伝える役割を果たす「預言者」にあります。キリスト教における代表的な預言者は「モーセ」です。一方、イスラム教では、モーセもイスラム教の中で預言者として扱われていますが、最後で最大の預言者と称される「ムハンマド」です。イエス・キリストは、神の子であり、かつ救世主(メシア)として位置づけられていますので、預言者とはされていません。

さて、キリスト教においては、最後の審判の日にキリストが再臨し、全ての人間(死んだ者も含む)を復活させ、審判を受けた結果、救われる者(永遠の命を与えられる者)と救われない者(地獄に堕ちる者)とに分けられます。わかりやすく言い換えると、普段から善い行いを続けたものは祝福され、そうでないものは罰されるということになります。

また、キリスト教における教会は、信者たちが集まり祈りを奉げる場所ですが、聖書を解釈し、人々の行動基準となる法文・法規(カノン法)を制定する役割は、いわゆる「神父」と呼ばれる聖職者に委ねられます。キリスト教では、カトリック教会、英国国教会、ギリシャ正教会、ロシア正教会などの会派に分かれていますが、政治的な要因もあるものの、基本的には聖書の解釈の違い、すなわちカノン法の違いによって分派したものだそうです。

プロテスタントは、教会が、救済の権限を有しているかのような権力を示すことに反発し、聖書に立ち戻ることを訴えた人々によって生まれました。教会は祈りをささげるために人々が集まる場に過ぎず、聖職者としての神父ではなく、管理者としての牧師がいます。
プロテスタントでは、とりわけ職業は、GODが人間に与えた任務と解釈したことから職業が神聖化され、近代社会の中心的なイデオロギーである資本主義が発展する礎となったのだそうです。

イスラム教の信者は全世界に15億人以上いると言われています。中東だけでなく、東南アジアなどにも広がっており、例えばインドネシアは3億人の信者がいて、国民に占めるイスラム教徒の割合が世界一高い国です。
イスラム教では、「GOD」は「アッラー」と呼ばれます。イスラム教の聖典は「クアルーン(コーラン)」ですが、これはイスラム教における「法文・法規」の根幹となるものです。キリスト教では、法文・法典の内容が聖職者の解釈によって多様化しましたが、イスラム教においては唯一の拠りどころとなるものとしてクアルーンが存在しています。

また、キリスト教においては、イエス・キリストが実質的に偶像化し、崇拝の対象となっているのに対し、イスラム教では偶像崇拝を排除し、神への奉仕、すなわち信仰そのものを実践することが重視されています。具体的には、毎日決まった時間に礼拝を行うこと、断食月(ラマダーン)には、すべての信者が断食を行うことなどの信仰行為が義務づけられています。

ヒンドゥー教はインドを中心とする多神教の宗教であり、信者は10億人弱です。インドには、ヒンドゥー教に基づく「カースト制度」があることが良く知られています。カースト制度は人々を基本的に4つの身分(高い身分から、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラ)に分けるもので、親から子へと代々受け継がれていくものです。

それぞれの身分毎に就いてよい職業が決まっており、バラモンは宗教関連、クシャトリアは政治関連、ヴァイシャは商工業、スードラはサービス関連の仕事がそれぞれ割り当てられています。橋爪氏によれば、身分の上下があることは確かに差別であり問題ではあるものの、明確に身分が分かれていることで良いこともあると主張します。

どの階層の人々も、いわゆる「奴隷」ではないので、同じ階層同士に限られますが、全員結婚できますし、法的な人格・権利は認められているのです。また、職業が決まっているので失業がない、といったことです。何千年も続いてきたインドの歴史において、カースト制度が今まで生き残ってきたことには、こうしたメリットや必然性があったと考えられると橋爪氏は考えています。

また、ヒンドゥー教では「輪廻」、すなわち生まれ変わりが信じられています。良い行いをすれば、次にはより高い身分の人間に生まれてくるかもしれないし、逆に悪い行いをすれば、次には人以外の下等な生物に生まれ変わるかもしれないと考えることで、今の人生を生きる希望を持てると同時に、社会秩序を保つ規範となっています。

最後に、中国社会の根底にある「儒教」について、橋爪氏は、儒教の本質は「順番」づけにあると指摘します。橋爪氏によれば、中国には3つの公理があります。1番目は「自分は正しくて立派である」とすべての中国人が考えていること、2番目は「相手も自己主張」をしてくるということ。3番目は、したがって、誰が正しいか、誰に従うかを決めるには「順番をつける」ことが必要ということです。

以前であれば、この順番づけのトップに君臨したのが「皇帝」であったわけです。現在は、中国共産党の最高指導者が最上位に位置付けられています。中国共産党ではトップだけでなく、全ての人々の順番が明確化されていますが、順番があればこそ中国社会はうまく回るのです。こうした中国の価値観や行動様式に大きな影響を与えているのが「儒教」なのだそうです。

さて、中国との対比で日本を見れば、私たち日本人は、「自分は必ずしも正しくないかもしれない」と考えていますし、相手が必ず強い自己主張をするとは考えていません、また、物事はいちいち相談して決める、というのが基本的な行動様式になっています。日本にもさまざまな宗教の信者がいますが、全体としては、それぞれの宗教に伴う絶対的な規範に従うよりは、みんなでルールを決めたいというのが日本人なのです。

このように、橋爪氏は、宗教を学ぶ意義として、他者を知ることで自分自身、つまり日本人のものの見方・考え方をよりよく理解することにもつながると主張します。他者を知ることが自分を知ることにもなるというわけです。
質疑応答を含む120分という限られた時間ながら、世界の主要宗教の本質を知ることができ、また自分も宗教を学んでみたいという意欲をかきたてられたご講演でした。
 

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