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夕学レポート

2015年10月13日

千住 博「日本の美、世界の美」

千住 博
画家、京都造形芸術大学教授
講演日時:2015年6月9日(火)

千住 博

実は、美術館が好きではない。
混んでいると、おばちゃんの鞄が早く進めよと言わんばかりに押してくるし、反対にガラガラだと、「教えたいおじさん」に捕まってしまうからだ。
なので、藝術には縁遠い暮らしをしている。
本日の千住博先生の講演『日本の美、世界の美』は、旧石器時代の洞窟壁画の話にはじまり、平和の話にまで広がった。
藝術とは特別なものではなく、身近にあるもの。
それを、美術や藝術に疎い私にでも感じさせてくれる内容であった。
特に「日本の美」と「美しさと綺麗の違い」の話が印象的だったので、その部分を書いていく。

さて、「日本の美」とはどういうことなのか。
多くの人の頭に、まず思い浮かぶのは四季や、自然と一体になった美だろう。
しかし、千住先生によれば、それは正確ではない。
日本の美と言っても、それは世界の一部であり、共通認識があるからこそ、国境を越えて感動できるのだという。
たとえば、ピカソの絵を見て感動するのは、スペイン人だけでなく、世界中の人が感動する。
文化は国ごとに、その土地や気候などに合わせて発展してきたが、元を質せば同じである。
雨が降れば洞窟に入り鬱々とした気分で過ごし、晴れれば狩猟や採集に励む。
文化が発展していく段階で、違う経路を辿ったため、置いてきたもの。
そこに、どこか懐かしさを感じ、心が惹かれるのではないか。

私自身が、ある絵に惹かれる理由を問われれば、郷愁を感じるかどうかがポイントである気がする。そして、懐かしさを感じることができるのが、自分の目にとっての「美」であると思う。しかし、郷愁を感じるものは、必ずしも自分が生きている時代に感じたもの、見てきたものではない。

たとえば、ある東南アジアの国に旅行に行く際には、異文化として受け止めている気がしない。
どぶ川で遊ぶ子供や、物乞い、バラック小屋、そして人間が生き生きした感じ、かつての日本を感じるのだ。
私が子供の時には、どぶ川で遊ぶ子供はいなかったし、物乞いをする人もいなかったが、何か懐かしい感じがする。
かつて、自分の人生に存在していなかったに出来事にも関わらず。
多くの人がこういう感覚になることがあるからか、輪廻転生を信じる人もいる。(私は信じないが)

郷愁(nostalgie)とは、ギリシア語では帰還(nostos) 苦しみ(algos)が合わさった言葉である。その戻れない苦しみを藝術は「美」をもたらし、満たしてくれているのではないかと考えた。だから、異国に行き、自然に新鮮に生きている人たちを見ていると、欠けてしまったものが、その人たちにはある気がして、戻れない哀しみのようなものを感じる。
日本だから、日本人だから、と国民性で一括りにまとめられない「美」が、世界にはあるのだ。

では、そもそも「美」とは何か。
「美と綺麗は違う」と千住先生は言った。
「美」とは、人の本能に働きかけるものである。
たとえば、美味しいものを食べた時に、人は生きていてよかったと思う。
その「生きていてよかった」と思うことこそが「美」である。
ゴーギャンは自殺するつもりで、タヒチで最期の一枚を描いた。その絵に救われて生きて描くことを選択した。自分の絵に心が動かされることにより、生きていくことができた。
人に生きる力を与えてくれるものが「美」なのだ。
しかし、「綺麗」とは整っていること、秩序を与えることの意味から脱することはない。

確かに、私も整ったものに美しさを感じない。
○○自然公園など、人の手が入った(手入れされた)自然に美しさを感じない。
というか、心が動かされることが無いのだ。
むしろ、手つかずの草が生え放題のほうが、生命力を感じられて、心を打たれる。

同じく人間もそうである。整ったものに感動しない。胡散臭い気がする。
「美」と「綺麗」の点から考えると、人間は綺麗になっている。
特に女性は化粧の技術が上がっていて、見た目にも、そこそこ綺麗な人は沢山いる。
内面的にも整然としていて、感情を表に出すことがない。
先日の五木寛之先生の講演内容にも通ずるが、人間が喜怒哀楽を示さずに、スマートに人工的に生きようとしていると感じる。
人間にも会うとエネルギーを貰える人もいるし、そうでない人もいる。そこにもやはり「美」が関わっているのではないか。
かといって、人工的なものが「美」に遠いわけではない。

話は逸れるが、千住先生は「滝」の絵を主に描いている。
今までは常に自然の塗料を用いて描いていたが、新作では初めて蛍光塗料を使用したという。
その理由は、夜の闇の怪しさを描くのには、ネオン街に浮かぶ蛍光色のほうが、より的確に闇を表現できると感じたからだ。
ここには、人工的なものに頼ることで、より自然の美を追求できたことが伺える。
演技をする役者たちも、人工的な人間を自分の中に作り上げることで、より自然な演技ができ、人を感動させる。

「美とは何か」。簡単に定義できるものではない。
出会ってはじめて心が動かされるもの。先生の絵の「滝」のしぶきのように、かたちを留めないその時どきの、一瞬のものなかもしれない。

(ほり屋飯盛)

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