夕学レポート
2019年08月13日
馬場 渉氏講演「大企業イノベーションの起こし方」
2017年の春、日本の典型的かつ伝統的な大企業であるパナソニックで、驚きの人事があった。一つはOBであり日本マイクロソフト社長だった樋口泰行氏の請われての復帰と役員登用。そしてもう一つが、内部昇格でも出戻りでもない全くの外部人材が、こちらも請われて本社ビジネスイノベーション本部長・兼・北米子会社の副社長というポストに抜擢されることだった。
世間の耳目は前者に集中したが、パナソニックの未来に大きく影響するのはむしろ後者の方だったかもしれない。少し前まで同社製品を買ったこともなければ松下幸之助氏の著作を読んだこともなかったという馬場渉氏は、このとき、39歳にして同社の一員となった。
馬場氏は、ERPの世界的企業として有名な独SAPグループでキャリアを積んだ。直近では本社カスタマーエクスペリエンス担当バイスプレジデントとしてシリコンバレーに籍を置き、大手顧客のデジタル・トランスフォーメーションをハンズオンで支援してきた。
だが、ディズニーの放送部門がいくら頑張っても、NETFLIXのスピードには追い付けない。小売業の世界最大手ウォルマートも、amazonのようなデジタルネイティブ企業の動きには追随できない。過去に成功体験を持つ大企業が、それ故に、デジタルに最適化された新興企業に追い抜かれる事態。「イノベーターのジレンマ」そのものだ。
ハーバード大学のクリステンセン教授が”The Innovator’s Dilemma: When New Technologies Cause Great Firms to Fail”を著したのは1997年のことだった。大企業が成功体験に引きずられて破壊的イノベーションに対応できず駆逐されるメカニズムを説いた同書は、『イノベーションのジレンマ-技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』という邦題で日本でもベストセラーとなった。
翻って、パナソニックもまた、イノベーターのジレンマに陥っていた。
創業者の時代には卓越したイノベーターであったのに、昨今のデジタル化の潮流を上手く捉えられず、緩慢に沈み続ける巨大企業。しかもその窮状を正しく認識し克服できる者が内部にはいない。その危機感が、パナソニックの経営トップをして、馬場氏を招聘させたのだろう。
馬場氏の担当はコーポレートイノベーション。パナソニックという企業そのもののイノベーションである。会社を若々しく活気づかせ、創業期のような急成長企業に戻し、新しいパナソニックに生まれ変わらせること。いやそんなきれいな言葉では伝わらない。「パナソニックは大企業病です」。そう社員に宣告し、それを克服させる。それが馬場氏に与えられた使命である。
そうは言っても相手は従業員27万人、製品ごとに区切られた37の事業部が並立し、百年の歴史を持つ、売上高8兆円の巨大企業である。しかも27万人の大半は、自分たちが「病気」に罹っていることを自覚していない。個々の社員は、事業部ごとに最適化された職場環境で自分の仕事だけを見て、会社は順調だと思っている。自覚書状がないのもまた、大企業病の特徴だ。
すべてを一夜にして変えることはできない。どこから手をつけるか。
馬場氏は30歳前後の世代に目を向けた。若くて能力も意欲もあるが、既存組織でそれを十分に発揮できないまま、会社の価値観には一定度染まってきている者。彼らを各事業部の多様な職種から満遍なく抜き出し、シリコンバレーの施設、馬場氏がPresidentを務めるPanasonicβ社に送り込む。βはβ版の意。ここで彼らは現地スタッフのみならずAppleやGoogleの経験者らとも交わりながら、当地仕込みの方法論とスピード感、そしてデジタルネイティブとしてのビジネス感性を身に付けていく。
外部の新しい考え方に触れるだけでなく、内部に存在する自分たちの価値を再発見することもコーポレートイノベーションの重要な要素だ。モノづくり企業としては、プロダクトイノベーションを通じてそれを実現したい。そのためにはどのようなプラットフォームが最適か。
それまでの事業部ごとのタテ割り価値観を打破するために、馬場氏が選んだのは「家」だった。電灯から家電、住宅まで、「家」にはパナソニックと顧客の接点が多い。これをコングロマリット化した同社ならではの強みと考え、この顧客接点を通じて将来にわたり新たな価値を一気通貫に提供する。生活全般をアップデートしていく家、というコンセプトの「HomeX」というヨコ割りのプロダクトブランドには、βで生まれた若手社員のアイデアが具現化されている。
HomeX | より良い毎日を提供する 「くらしの統合プラットフォーム」
このような「出島」を創って新規事業を立ち上げること自体は、どこの大企業でもやっていることだろう。難しいのは、その出島で生まれたイノベーションを、出島よりはるかに大きな既存組織にどうやって波及させていくかだ。
βの場合、招集メンバーが固定ではなく、数十人が3か月単位で入れ替わるところに工夫がある。元の職場に戻った社員は、シリコンバレーで体感し体得したものを、自らの仕事を通じて職場に伝えていく。一度は会社に染まった自分でも変われる、パナソニックだって変われる、というのを周囲に実証していく。それにより、βに関する周囲の関心を引き出して目を向けさせつつ、新しい血を全体に還流させていこうというのが馬場氏の基本的な戦略である。
馬場氏は、「法人もヒトだから」と言って、医療の比喩でコーポレートイノベーションのいくつかの側面を語った。
- イノベーションとは、代謝であり、循環であり、生物が生きていくためのメカニズムである。
- 患部を切除しようとする西洋医学的なアプローチでなく、身体全体の臓器システムの調和を図る東洋医学的なアプローチを志向する。
- まともな社員なら、外部から言われなくても、どこに問題があるかは知っている。だから、そのヒトの自然治癒力が十分に発揮できるように環境を整える。
- ヒトの身体には、免疫系という「新しいものを殺す機能」が備わっており、良いものも悪いものも排除しようとする。しかし、デジタル時代への耐性をつけるためには、デジタルネイティブの抗体を自らに取り込む必要がある。
鍼師のように、身体のツボを刺激することで体質を変えていく、という話もあった。
外部から来た自分が単に正論を言っても相手の胸には響かない。胸に響かなければ意識は変わらない。でも、勤続数十年のベテランにこう言ったらどうか。「僕が読んだ本の松下幸之助さんは、そんなことは言っていませんでしたよ」。
あるいは、モノづくりが好きで入社した人々に、モノづくりはもう古い、という代わりにこう問うたらどうか。「『冷蔵庫』の未来って、どうなると思いますか?」
誰もが持つ、そこだけは負けたくない、というコアコンピタンス。そこをチクっと刺激することで、個人も、法人も、ヒトの身体は自然と動き出す、という。
講演の最後に馬場氏は一冊の本を紹介した。スタンフォード大学のオライリー教授とハーバード大学のタッシュマン教授の2016年の共著”Lead and Disrupt: How to Solve the Innovator’s Dilemma”だ。
原題を見比べればわかるが、同書はクリステンセン教授の著作に対する約二十年越しのAnswerだ。邦訳は2019年2月に『両利きの経営』として出た。邦題の意味は、既存事業の維持と新規事業の開拓、あるいは「深化」と「探索」が、ひとつの会社でどちらも同じようにできること、いわば右手も左手も両利き(Ambidexterity)のように使いこなせることだ。
結論、両利きの経営が大事。でもそれは当たり前の話だ。大企業とてそれはわかっている。わかっていてもできないから苦しんでいるのだ。ではどうすれば両利きの経営に至れるのか。
答えを探してあらためて原題を見る。Lead and Disrupt、リードと破壊。これこそが両教授が提唱する行動原理だ。先頭に立って人々を導き、イノベーションを阻害するものを破壊しつつ、破壊的イノベーションの種を探す。確かにそれは馬場氏の行動のありようとも重なる。
質疑応答で、こんなやり取りがあった。
「大海にインクを垂らしても海の色は変わらない。βから元の職場に戻れば、その社員は元の価値観に戻ってしまうのではないか?」
それに対して馬場氏は言った。
「そうならないように気を付ける。それだけです」。そしてこうも付け加えた。
「…ここにいる大企業の皆さんは、何が問題となるかすでにわかっている。問題が生じるのを知っているから、今のような質問ができる。でも、そういう問題が起こってから『戻っちゃったね』と言っても意味がない。元に戻る可能性を知っているのなら、それを防ぐ工夫をするしかない」
この答えに、ハッとさせられた。
実は私も、講演を聴きながら、頭の中で「これは大変だな」とか「AとかBとか、問題が生じそう」「なぜCだけなのか?Dはしないのか?」「Eもやってみたらどうか?」という疑問をぐるぐる泳がせていた。これが職場で部下のプレゼンを聴いているのなら、間違いなくそれらの言葉を口にしていただろう。
しかし、既存組織の既存事業ならともかく、イノベーションを起こそうという現場では、それはスピードを阻害しイノベーションの種をみすみす摘んでしまう行為に他ならない。馬場氏のいう、悪しきパーフェクション文化のあらわれに過ぎない。
「大企業の場合、イノベーションを起こす仕組みより、それがいつの間にか消えないような仕組みづくりが大事」。そう言った馬場氏の言葉があらためて胸に響く。
四半世紀も大企業に籍を置き、既存組織で既存事業を深化させることにどっぷり浸かってきた自分のような存在こそがイノベーションを阻害するのか、と実感させられてしまった瞬間であった。
では私のようなロートルにはもう居場所はないのか。もちろんそんなことはない。『両利きの経営』で、それを成立させる最重要要素として挙げられていたのはリーダーシップであった。既存領域にも新規領域にも同様に目配りをして、組織全体を正しくリードしていけるリーダーの存在。それは、与えられた職位の中で、私自身が自らの組織に対して発揮しなければならないリーダーシップそのものだ。
思えば入社3年目の今年、馬場氏を同社史上最年少の執行役員に引き上げたのは、パナソニック経営トップである津賀一宏社長の「本気」を示すリーダーシップのあらわれであったのかも知れない。
「5年から10年の変化でパナソニックを本質的な意味で強くする」、と力強く語った馬場氏。その「異物」を、どこまで内部にとりこみながら会社全体が変われるか。パナソニックの両手が器用に動きだすのは、いよいよこれからである。
(白澤健志)
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