HOMEへ戻るMCCマガジン玄侑 宗久 「もう一つの知の在り方」

玄侑 宗久 「もう一つの知の在り方」

2007年04月10日

玄侑宗久 作家、僧侶 >>講師紹介
講演日時:2007年1月30日(火) PM6:30-PM8:30

玄侑宗久氏はまず、「温度」や「色」、「時間」といった、私たちが普段存在していると思っているものには、本来、実体はなく、人間の思考・行動を支配している「大脳皮質」が生み出したものであるという指摘から話し始められました。


仏教では、「あらゆるものには自性(じしょう)がない」と説くそうです。
自性がない、つまりそもそも実体のないことを大脳が「ある」と思い込んでいる世界に、私たちは住んでいるのです。この指摘は、昨年10月の夕学に登壇された脳科学の専門家の池谷裕二さんが講演の中で触れられていた「脳は世界を勝手に解釈している」というお話にも通じるところがあると思いました。
さて、このような大脳の思い込みのひとつに、「物事にはすべて原因と結果がある」という考え方があります。「因果律」と呼ばれるものですが、これは、単なる「思考習慣」に過ぎないのだそうです。しかも、実はたくさんの原因があるかもしれないのに、なるべく一つの原因に帰結させようとする「単因論」にしようとする傾向があるそうです。原因は一つのほうがわかりやすいからです。
こうして、たとえば何か良くないことが起きると、その原因がどこかにあるはずだと犯人探しをしてしまう。そして、原因と考えられるものを見つけると人は安心するのです。玄侑氏は、こうした因果律の考え方が、昨今のいじめ問題の背景にもあるのではないかと考えているそうです。
しかし、この世界は因果律だけでものごとが起きているわけではありません。玄侑氏によれば、因果律も含め、次の3種類があるそうです。

  • 因果律(スィークウェンシャル):AがあるからB、BがあるからCという時系列的な変化が起こっている状況
  • 共時(シンクロニシティ):なんらかの関係のあるAとBが同時に起きているような状況
  • 並行(パラレル):無関係な出来事が、ばらばらに並行して起きている状況

これらのうち、「シンクロニシティ」は「同期」とも訳されることがありますが、この現象はさまざまなところで見られます。たとえば、心臓は、心臓を構成する約1万個のペースメイカー細胞が「同期」して動いています。同期して動いているからこそ、全体として規則正しい拍動が生まれているわけです。
また、同じところにいる何万匹もの蛍が、まったく同じ間隔で明滅を繰り返すという現象はよく知られていますし、小さなコオロギの鳴き声がとても大きく聞こえるのは、たくさんのコオロギたちの鳴き声がぴたりと合って、モノフォニーを形成するからなのだそうです。
玄侑氏は、こうした同期を生み出す媒介力を中国では「気」と呼んできたのではないかと推測します。ある固体と別の固体が「気」でつながっているから、時間を超えたところでシンクロニシティが生まれる。この「気」の存在を感じさせる実話として、玄侑氏が教えてくれた話は、米国の原子力潜水艦で飼われている子ウサギの話です。
原子力潜水艦は、非常に深い海の底に潜ることがあります。そこではもはや無線さえ通じず、陸との交信ができません。そんな状況で、もし潜水艦に問題が発生した場合にはこの子ウサギの首をはねるのだそうです。すると、はるか離れた米国本土にいる親ウサギが尋常でない騒ぎ方をすることがわかっています。こうして、「気」の力を利用して、潜水艦の異変を伝えようということでしょう。
このように、因果律だけでなく共時や並行でも物事が起きているため、将来何が起こるか確実には予測できない世界に私たちはいるのです。この予測できない、大きなものごとの流れ(変化)、これを中国では「命」(めい)と呼んでいます。そして、天のみが知るものごとの流れを「天命」と言うわけです。
さらに、この天命と人間の関わり方の違いで、「宿命」「運命」、そして「立命」といった言葉があります。
「宿命」は、「命に宿る(とまる)」と書くように、命固定的なものとみなす考え方。「運命」は、天命とはいえ、それは関わり次第で動くという考え方です。そして、「立命」とは、孟子が言った言葉だそうですが、その流れに乗りたいという考え方です。
この「流れに乗る」ということの意味はなかなか説明が難しいのですが、自分という意識を消し、ものごとの変化の全体性の中に入っていく、そして、自分だけが良ければいいという考えではなく、全体として良い方向に流れていくということのようです。
古来、中国では、晴れていたと思ったら突然雨が降る天気のように、次に何が起こるかわからない自然現象を支配するものを「龍」だと考えました。そして、この龍の背中に乗ることが、上述した「全体性の中に入っていくこと」を象徴しているのだそうです。仏教では、龍の背中に乗っているのは「観音様」です。観音様は、ものごとの全体性に入るために必要なこと、すなわち自分という意識を消す、解体することができたから、龍を乗りこなせるのだそうです。
私たちが、龍を乗りこなすことができるかどうかはさておき、自分という意識を消すことはできるようです。それが、玄侑氏の言う「もうひとつの知」です。玄侑氏は、それを「瞑想知」と呼んでいます。ものごとをその構成要素にどんどん還元していくことを「分析知」、つまり「分けていく力」とするなら、「瞑想知」は、ものごとを包み込む力です。
では、具体的に「瞑想知」を発揮するためにはどうしたらいいのでしょうか。
玄侑氏によれば、ものごとを感覚器(視覚、聴覚など)で感じた後、それを知覚しないようにすることです。簡単に言えば「大脳で考えないようにする」ことが必要なのだそうです。たとえば、カラスが鳴いている時、その鳴き声が聴こえるのは耳で感じているからですが、さらに「カラスが鳴いているなあ」とか、「カラスは縁起が良くない」と考えてしまうと、それは感じたことを大脳で処理した、つまり「知覚」したことになるというわけです。ですから、感じても知覚せず、受け流すことができれば、知覚する主体としての「私」は芽生えずに済むことになります。
玄侑氏は、坐禅を組んだり瞑想をすることは、ものごとの流れをただ感じているだけの状態に自分を置くことになることから、もうひとつの知を「瞑想知」と呼んでいるそうです。坐禅以外にも、ご先祖様などを視覚的にイメージしながらお経を一心不乱に唱えるのも「瞑想知」を発揮する方法として有効だそうです。
玄侑氏のお話は、ご自身でもおっしゃっていましたが「わかったようなわからないような話」でありながら、とても深い共感と納得感を覚えました。分析知を超えたところにある内容ですから、そもそも分かろうとするのではなく、全体として受け止め、包み込むということが大切なんだろうなと思いました。

推薦図書
『祝福』 坂本真典・玄侑宗久(共著)、筑摩書房、2005年
『現代語訳・般若心経』 玄侑宗久著、筑摩書房(ちくま新書)、2006年

推薦サイト
http://genyu-sokyu.com/ 玄侑宗久 公式サイト

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