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福岡 伸一「生命観を問い直す~機械論から動的平衡へ~」

2008年08月19日

福岡伸一 青山学院大学理工学部 教授、分子生物学者 >>講師紹介
講演日時:2008年6月27日(金) PM6:30-PM8:30

福岡氏が昨年上梓された『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、50万部を超えるベストセラーとなりました。福岡氏によれば、それまで書いた本の出版部数を全部足して10をかけた数をはるかに上回る予想外の売れ行きだったそうです。福岡氏は、なぜこれだけの読者を獲得できたのかについては後付けの理由しか言えないけれども、やはり多くの人々が「生命とは何か」について知りたいと考えているからだろうとおっしゃっていました。
さて、福岡氏はまず、サブタイトルにもある「機械論」と「動的平衡」の違いを説明してくれました。生命を「機械」とみなす考え方はデカルトから始まっています。デカルトは、心臓は「ポンプ」、関節は「滑車」、肺は「フイゴ」のようなものと、生命現象を機械にたとえて説明しました。つまり、生命を様々な部品(パーツ)が集まってできている精巧な機械、あるいはプラモデルのようなものであるとする考え方、これが機械的な生命論です。この考え方は現在でも生命観の主流であり、体のパーツのどれかが具合が悪くなったら、例えば臓器移植をして取り替えるといった現代の医療行為や遺伝子組み換え技術の発展のベースにあります。


その後、この機械的生命観がミクロレベルでも語られるようになったきっかけは、約50年前、ワトソン、クリック両科学者によるDNA の「二重らせん構造」の発見だそうです。福岡氏によれば、「二重らせん構造」で重要なのは「二重」である点です。一組のDNAは、衣服についている「ファスナー」のように、両側の凸凹がぴったり組み合わさるような対構造になっています。したがって、DNAを1本ずつに分けても、それぞれ対となっている側を簡単に複製することができます。つまり、DNAには自分を複製するメカニズムが埋め込まれているのです。以来、「生命」とは「自己複製をすることができる機械」という考え方が確立したのだそうです。
しかし、果たして生命を「機械とみなしていいのか」という問いかけも一方でありました。そこで、福岡氏が示してくれたのが機械論とは異なる考え方である「動的平衡論」です。これは福岡氏自身が、20世紀最大の生命科学者と認めているルドルフ・シェーンハイマーが提唱したものだそうです。シェーンハイマーは、体の中に入った食べ物がどのようにとりこまれるのかを調べるため、ねずみを使って実験しました。食べ物の分子に色をつけ、細胞レベルでその動きを調べたところ、摂取した食べ物は体のあらゆる場所にとけこんで一部となっていくことが確かめられました。ところが、ねずみの体重は増加することはなかったのです。この実験が示唆していたことは、細胞の分子がたえまなく新しいものに入れ替わっているという事実でした。摂取された食べ物は生命活動を支えるエネルギー、いわばガソリンとして利用されるだけではなかったのです。
また、細胞の分子と分子はジグソーパズルのようにパートナーとなる隣り合わせのピースとのすき間をつくることなく埋めていくことが研究でわかっていました。その関係は相補性と呼ばれます。
生命は、常に構成と分解を繰り返しながら、相補性という一定の秩序を維持しており、いわば、常に新しい水が流れ続けている「川」のようなものである、これが「動的平衡」の考え方です。
機械のように頑丈に作られたものは、時が経つにつれ古くなっていきます。このある秩序が徐々に無秩序化していく変化はエントロピーの法則と呼ばれ、なにものも逆らうことはできません。
そこで、福岡氏の言葉によれば、生命は、あえて自らを「ヤワヤワ・ユルユル」な状態にしておき、自ら古いものを分解し、新しいものに入れ替え続けることによって命の火を灯し続けているというのです。福岡氏によれば、「舌」の細胞の分子はわずか数時間で新しいものと入れ替わっているそうですし、一見変わらないように見える、「骨」や「歯」といったものでさえ、数ヶ月で新しくなっています。しばらく会わなかった友人に久しぶりに会った時、私たちはよく「お変わりありませんね!」と声をかけますが、福岡氏に言わせると、分子レベルでは「お変わりありまくり」なのです。
続いて、福岡氏は「部分」に捉われ過ぎてしまうことの問題について話を展開しました。私たち生物は、様々な現象の中から、一定の法則やパターンを見つけ出す能力、すなわち「象徴抽出能力」を持っています。これは、生きていく上で大変役に立つ能力ではあるのですが、逆に自分が抽出した法則やパターンに縛られ、虚心坦懐にものごとを見ることができなくなります。つまり、目に見える範囲、理解できる範囲だけでものごとを決定しがちになってしまうのです。
福岡氏は、こうした能力が招いた好ましくない結果の例として、ご自身が長年研究されてきた「狂牛病」を取り上げました。狂牛病とは、文字通り、牛が狂ったような奇怪な動きをしたり、歩けなくなって最後は死に至る奇病です。この奇病の発生は、本来、羊だけに見られた「スクレイピー病」の病原菌が、種の壁を越えて牛に感染してしまった結果でした。
狂牛病に罹った牛は、1985年、英国で初めて発見されました。それまで全く起きていなかった病気がなぜ突然発生したのでしょうか。様々な原因が考えられましたが、結局、乳牛に与える「エサ」に問題があったことがわかりました。改めて言うまでもなく、牛は草食動物です。しかし、農作地に乏しい英国では、乳牛を育てるだけの十分な穀物がありません。かといって輸入穀物を使うのは割高でした。そこで、死んだ家畜などを原材料に作られた安いエサを乳牛に与えるようになりました。これがいわゆる「肉骨粉」です。牛に肉骨粉を与えるということは、草食動物を肉食動物に変えてしまうことです。そもそも、動物の種がそれぞれ異なる食べ物を摂取するのは、生態系全体を維持するための巧妙なすみわけです。これを目先の畜産効率アップという部分だけしか見ずに、人間の都合で勝手に変えてしまったのが事の発端だったのだそうです。
狂牛病の第一号が発生したのは1985年近辺です。肉骨粉のエサが与えられ始めたのは1920年代からでしたが、発生の直接の原因となる変化は1980年の石油の高騰により起きました。それは、肉骨粉の製造業者が、燃料費の高騰による製造費用を引き下げるため、従来の製造工程を簡略化し、十分な殺菌を行わないものにしたのです。このため、スクレイピー病で死んだ羊の病原菌が死滅しないままエサとなって流通し、このエサを牛が食べたことによってついに「狂牛病」が潜伏期間の5年を経て発生してしまったのです。この時点でもやはり、製造業者の生産効率という部分にだけ捉われ、それがどのような波及効果をもたらすかについての考えが抜けていたというわけです。
福岡氏は、狂牛病の例を通じて、ある特定の部分だけでものごとを考え、決定してしまうことの危険性を示してくれました。それは、切り取ったものから見ると全体像を見失う。部分のロジックのみで考えてしまう危険性があるということです。
動的平衡においては、部分は幻想であるということであります。
モナリザの絵であっても、それを何等分かに分けたパーツのみの情報からは全体を想像することはできません。世界に「部分」はないのです。
地球生命38億年の生命現象はたえまのない流れであり、すべてはつながっている。秩序は相補性により保たれていると、福岡氏はこのように考えています。

主要著書
もう牛を食べても安心か』文藝春秋(文春新書)、2004年
プリオン説はほんとうか?』講談社(ブルーバックス)、2005年
ロハスの思考』木楽舎(ソトコト新書)、2006年
生物と無生物のあいだ』講談社(講談社現代新書)、2007年

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