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夕学レポート

2010年08月04日

第5回 「孤高の成長論者 下村治」 その2

下村治が主張したこと 「成長理論」
下村氏が一方の主役を務める日本経済の「成長論争」は1959年から始まったと言われていますが、その前年に、下村氏は『経済成長実現のために』という論文を発表しています。
「いまや日本経済は大きな転機を迎えた。日本はようやく十分な供給力を身につける準備態勢が整ったのだ。あとはそれをどう実現していくのかが課題である。そのためには、さあ、需要を増やそう!」
下村氏は、力強く宣言をして「成長論争」の口火を切ったのです。
続いて1959年2月、『日本経済の基調とその成長力』と題する論文を発表します。この中では、57年に発表された政府の長期経済計画(6.5%成長)に異を唱え、日本の成長率予測が低すぎると指摘しました。これをきっかけに経済計画の策定者である大来佐武郎氏とも「大来・下村論争」と呼ばれる論争を展開することになりました。


「成長理論」のコアエッセンスは、『経済変動の乗数分析』に書かれた「産出係数」という概念に集約されます。
「産出係数」は、需要サイドではなく、供給サイドに着目をした下村氏独自の成長率予測ツールとも呼べるもので、民間の純設備投資額(新規投資分-古い設備の除却分)に、一定数字の「産出係数」を乗じたものが翌年のGDP増額分となるというものです。
つまり、「産出係数」は、資本の増加(新たな設備投資)が、どの程度の生産量の増加につながるのか(経済成長率を高めるのか)を決定づけるものであり、下村氏は「産出係数」を1前後であると見通していました。設備投資が増えれば、それだけ経済成長率も高くなると予測したことになります。
この理論にもとづいて、下村氏は今後10年間に渡って、日本は二ケタの経済成長が可能であると予測し、実際にその通りに日本経済は成長することになります。
下村理論の特徴は、民間の設備投資の重要性に着目した点で画期的であり、設備投資を軸に経済運営を見るという考え方は、現在においても重要な経済指標として受け継がれているそうです。
「成長論争」の論点のひとつは、この高い成長率予測にありました。多くの経済学者は、日本にはそれだけの余力はないと下村理論を批判しました。具体的には、「産出係数」をめぐる論争とも言えます。資本の増加に伴い、設備の生産性は下がり、資本効率は低下するのだから、「産出係数」も低下する。従って下村理論のような高い成長は望めないという見解でした。
それに対して下村氏は、技術革新に伴い生産性は高まり、資本効率は落ちないと主張しました。
もちろん、長期的には資本効率の低下は避けられませんし、特に現代のような成熟社会においては、資本の増加はストレートに生産に結びつかず、環境投資等の非生産的な投資を伴わざるを得ませんが、勃興期を迎えつつあった当時の日本経済においては、下村氏の予測通りに技術革新による生産性の向上は、資本効率の低下を補って余りあるものがあり、1960年代を通して、日本は高度経済成長を続けることになります。
「成長論争」のもう一つの論点は、国際収支の制約をどう読むかという点にありました。
高い成長が続けば、輸入も増加せざるを得ない。輸入の増加は経常収支の赤字を招き、やがて外貨が不足して経済が回らなくなると危惧されたのです。
これに対して下村氏は、日本経済には十分な供給力があり、輸入が増える以上に輸出が増えるので、その問題は杞憂であると反論しました。やがて日本が高付加価値製品の製造へとシフトしたこともあって、下村氏の読みが現実のものとなり、現在に続く経済収支の黒字基調が定着していきました。
下村氏の成長理論が実現されるうえにおいては、それを実際の政策に転換する道筋がつけられたことも重要なことでありました。
それが池田勇人元首相の「国民所得倍増計画」と呼ばれるものです。
池田勇人は下村氏の大蔵省10年先輩にあたり、同じように病に倒れて、不遇の閑職時代を味わったという共通点があります。
池田元首相と同期で宏池会事務局長を務めていた田村敏雄氏の仲立ちもあって、池田氏と結びついた下村氏は、池田氏の総理就任に伴い、その経済ブレーンとなります。
池田勇人の「国民所得倍増計画」に、理論的な裏付けを与えるが下村治の「成長理論」という図式がここに完成しました。
1960年代以降、高度経済成長が現実のものになると、「高度成長の光と陰」が指摘されはじめ、成長優先で生まれた歪みとしての住宅問題、社会インフレ、物価問題などが指摘されるようになりますが、下村氏は、成長の成果として住宅等のインフラはいずれ整備されるのだから、まずは成長を重視すべきだとして揺るぎませんでした。
物価高に対しても、生産性の向上が一様ではない以上、物価上昇に伴い賃金水準が上がっていくことで生活水準も向上するのだから、物価上昇が一概に悪いとは言えないと反論しました。
下村氏の考え方の背後に一貫しているのは、「日本経済は勃興期にある」という時代観と、供給力の向上が成長を実現するという「供給重視の視点」であったと竹中先生は総括してくれました。
下村治の転換 
1973年、石油ショックが日本を襲うと、下村氏は『日本経済はゼロ成長軌道に入った』という論文を発表し、ゼロ成長論者へと大きく舵を切り替えました。
石油が有限であるという事実を知ってしまった以上、将来への不安が成長意欲を減退させ、投資意欲は衰える。設備投資は進まず、低成長を余儀なくされる。というのがその主張骨子でした。
一方で、20年~30年を経て技術革新が進み、石油に換わる新エネルギーの開発が実現すれば、再び成長軌道に乗ることも可能であるという将来展望も描いてみせました。
実際は、下村氏の想定以上に早く技術革新が進み、石油埋蔵量の更新や省エネ技術、代替エネルギーの開発が進行したことで、ゼロ成長には陥ることなく、一定の成長率を維持することができたのです。
最後に、竹中先生は『日本経済成長論』の一節を紹介することで、孤高の経済学者 下村治の講義の総まとめとし、締めくくりました。
<日本経済の展望>
・日本経済は、いまや歴史的勃興期にある。国民の創造的能力の開放が、このような歴史的高揚の原動力である。
・われわれは、今後10年間に国民総生産を二倍より二.五倍~三倍に近づけうる可能性があるものと判断する。(同書11P~12P)
<成長の基本条件>
・経済成長は、実質的な生産能力の拡充が、それに対応した総需要の膨張によって現実の国民総生産(GNP)として実現される過程である。
・インフレなき経済成長の過程は、この総需要の膨張が、実質的生産能力の限界に近く、かつその限界を超えない程度に維持された状況である。ただし、この実質的な生産能力の拡充は、合理化・近代化投資による生産性向上を中核とするものでなければならない。この場合、国内における生産の増加が、同時に輸出競争力増加と輸入性向低下の効果を生じ、経済成長が国際収支上の問題を生ずることなく円滑に進行する。(同書15P~16P)
・民間設備投資と経済成長の関係は、年々の民間設備投資と、それによるGNP増加の可能性との関係として要約することが出来る。<中略> この民間設備投資の純額と翌年のGNP増加額との関係が、今後の経済成長の可能性を判断するうえにおいて基本的なものである。<中略> 成長の可能性の限界が、まずこのような民間設備投資による生産能力の増強によって与えられるという基本的な関係を確認する必要がある。(同書16P)

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