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夕学レポート

2010年08月03日

第5回 孤高の成長論者 下村治

4月に開始した竹中平蔵先生のよる『問題解決スキルとして経済古典』は、先週の土曜日をもって無事最終回を迎えることになりました。最後に取り上げたのは、竹中先生の「あこがれの人」であった下村治氏です。
一般の人々には馴染みのない名前ですが、池田勇人内閣の「所得倍増計画」の理論的支柱となり、1960年代の高度経済成長を予言した経済学者と言われると興味関心が沸いてくるのではないでしょうか。
本講座で取り上げる唯一の日本人ですが、これまでにも増して熱い講義となりました。
今回も二回に分けて、報告を致します。
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「下村治さんのようになりたいと思った」
竹中先生がエコノミストを目指そうとしたきっかけは、下村氏へのあこがれだったとのこと。
下村治は、日本の高度経済成長とそれを可能にした池田内閣の所得倍増計画の理論的な支柱として知られていますが、当時、錚々たる顔ぶれの経済人を敵に回して、孤軍奮闘、孤高の人として論戦を繰り広げました。そして結果的に、日本経済の成長は下村氏のほぼ言う通りになりました。
竹中先生は一橋大学卒業後、下村さんの後を追うようにして日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に入行しましたが、当時下村氏は、開銀の設備投資研究所の顧問をされていました。
若き日の竹中先生の記憶に残る下村氏は、いかにも大人然といった雰囲気を漂わす「グレイトな人」であったそうです。
何かひとつの現象を見ることで、その背後にある宇宙を見通すことが出来る空間認識力を有した人であった印象を竹中先生は持っています。


本講座のテーマである「問題解決スキルとしての経済学」を実践した、唯一の日本経済学者であった下村氏は、1)現実の問題に対して向き合う姿勢を忘れず、2)経済全体のビジョンと体系を持ち、3)極めて具体的な政策を主張しました。
「問題解決スキルとしての経済学」を実践する全ての条件を兼ね備えた人。それが下村治であったと竹中さんは言います。
下村治の生きた時代と直面した課題
1949年、政府の経済安定本部(略称安本:経済企画庁の前身)が太平洋戦争被害報告書を発表しました。そこには戦争で日本が被った被害がいかに甚大であったかが記されています。
死者185万人、負傷・行方不明者65万人。石油精製設備65%破壊、真空管製造設備58%破壊などを受けて、工業設備能力は4割程度まで縮小していました。終戦直前には、生産稼働能力は1割に満たなかったという数字も残されているそうです。
日本経済は、壊滅状態にあったと言えます。
戦後の日本が直面した課題は、インフレ対策でした。
1945年~46年の一年間で、WPI(卸売物価指数)は5倍、CPI(消費者物価指数)は六倍、日銀券の発行残高は二倍に膨れあがりました。
物価をどうやって抑えるか、それが日本経済喫緊の課題でありました。
下村治の生涯
下村氏は、1910年佐賀県に生まれました。
肺病を患い、一年遅れで東京帝大に入学しましたが、当時のアカデミズムはマルクス経済学全盛時代で、近代経済学はまだ黎明期でした。下村氏は後に「私は大学では経済学に出会えなかった」という述懐を残しています。
1934年に大蔵省に入省し、まもなくニューヨーク駐在勤務となります。この時にダウンタウンの本屋でケインズの「一般理論」に出会ったという逸話もあるそうです。
帰国後、同期入省14人と月曜会と名付けた勉強会を組織し、日本にケインズ経済学を紹介する役割も果たしたと言われています。
こういう時代の中で、下村氏は、1947年月に、安本の物価政策課長としてインフレ対策に取り組むことになります。
下村氏は、物価問題を通して、はじめて現実の問題に向き合うことを経験しました。この経験と知見は、後の成長理論に大きな影響を与えることになりました。
下村氏は、物価政策課長として、統計の不足を補うために、実際のヤミ価格を、足を使って調査するといった地道な作業をする一方で、「インフレとは何か」に関する明解なレポートを書き上げました。
「インフレとは、有効需要の膨張である。需要の膨張で物価が上昇することそのものは悪い事ではない。悪いのは、全体が不安定化し、政府が制御できない状態に陥っていることである。」
下村氏は、そう主張しました。
この当時、インフレに起因する賃金上昇と物価上昇の悪循環を巡って、都留重人氏と下村氏の間で論争が展開をされたと言われています。
下村氏は主張しました。
「現下の賃金上昇・物価上昇の悪循環は、供給が需要に追いつかないことによって起きている。供給体制が復活するまでの間は、需要を抑えるべく国民の生活水準も抑制する必要がある。労働組合もそれに協力するべきである。」
これに対して都留重人氏は反論しました。
「物価が上がるのに賃金を抑制するのは間違いである。むしろ物価を抑えるためにヤミ経済を統制するべきである。」
下村氏は再反論をしたそうです。
「ヤミが市場に活力を与え、生産を刺激しているのが現実なのだから、ヤミを無理に抑えたら経済はシュリンクする。」
下村氏は、市場メカニズムを重視する自由な経済に軸足を置き、都留氏は統制型の経済システムに拠った見解であったという理解ができます。
下村氏は、論争の中で、都留氏の見解に対して「理論整然と間違えている」という名言を発したと言われています。
1948年、下村氏は再び病に倒れ、病床で『経済変動の乗数分析』という論文を書き上げます。この論文に書かれた「産出係数1」の理論が、のちの成長論争のコアエッセンスとなっていきます。

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