ファカルティズ・コラム
2010年03月26日
宮崎弁の不思議
別にカミングアウトするわけではありませんが、私は宮崎出身です。
宮崎といえば、今はやはり東国原知事。
Twitterでも空いた時間に多くのリプライを返しており、その簡潔かつ大量のリプライを短時間に行うスキルが一部で話題となっています。
その知事がtwitter上で意識的に、他者と自身を鼓舞するために使っているのが「てげ!」というセリフ。
「知事、就活に望む私に励ましの言葉を」→「てげ!」
「それでは皆さん今日はこのへんで。てげ!」
といった感じで使われています(笑)
よく宮崎県民気質を表現する際に使われる「てげてげ」(「ほどほど/適当」の意)と同様に、元々は“大概(たいがい)”が簡略化されたものですが、この言葉って実はけっこう変わっていて面白いことに今さらながら気づきました。
というのも、この「大概」を辞書で引くと、『一般的であること。ありふれていること。ふつう』と『ふつうでないこと。はなはだしいこと』という正反対の定義が説明されているからです。
宮崎弁でも、「今日はてげ寒い(「さむい」でなく「さみ」と読んでください(笑))ねー」のように『とても(普通でない)』という意味で「てげ」を使う場合もあれば、「てげてげでいいっちゃろ?(適当でいいんでしょ?)」のように『ほどほど(普通)』という意味で使われる場合もあります。
さて、お気づきでしょうか?
『普通/普通でない』という反対の意味を表現する“大概”を、宮崎弁は単独(てげ)で使う時は『普通でない』の意で、繰り返し(てげてげ)で使う時は『普通』という意で使い分けているのです。
(実際「適当でいいよ」を「てげでいいが」と言うのを私は聞いたことがありません)
単独と繰り返しで使い分ける。
それこそ「てげてげ」が習慣になっている宮崎県民にしては、なかなか考えた言葉の使い方をしているとは思いませんか?(笑)
ところで、他にも宮崎弁には面白い特徴がいくつかあるのです。
私は言語学者ではありませんので学術的には異論はあるでしょうが、以下は論理思考の講師として「言葉にこだわる習慣を持っている」人間の考察として見ていただければ幸いです。
(1)「おじい」の不思議
宮崎弁では、「怖い(こわい)」を「おじい」と表現しますが、これは「怖じ気づく(おじけづく)」から来ています。(鹿児島でも使う地方があるようです)
よって方言とはいえ出自は明確ですから、前述の「てげ」と同様、使っても別に不思議でない言葉のはずです。
また、「ほんにおじいことでおじゃる(本当に怖いですねえ)」のように、元々は京都の公家言葉にも見られる表現のようですから、なかなか由緒正しい言葉と言えるかもしれません。
とすると、むしろ疑問に思うべきなのは、「なぜ標準語からこの「おじい」が消えたのか」と「なぜ京言葉が宮崎で残っているのか」でしょう。
ここから先は全くの私の仮説ですが、まず「おじい消滅の謎」については、歴史の流れにおける『公家文化から武士文化への移行』と、それによって『「こわい」が「怖い」から「恐い」に質的変化を遂げた』ことで説明できるのではないでしょうか。
この「怖い」と「恐い」ですが、漢和辞典で調べてみると、どちらにも”こころ”を表す記号の”りっしんべん”と”心”が入っていますから、心情を表現する文字であることは共通点です。
そして”怖”の”布”には布が張り付くように、から「せまる」という意味があるようです。ひたひたと恐怖が忍び寄ってくる様、まるでホラー映画のワンシーンのようです。
もうひとつの”恐”ですが、この字の上半分は「空っぽの状態」を意味するのだそうです。何かとてつもなく恐ろしいものに遭遇し、頭が真っ白になって固まっている様を表現しており、こちらも映像でたとえると、サスペンス映画で目の前に銃を突きつけられたシーンでしょうか。
ここから私は、『”怖”=超自然的な得体のしれないものへの怖れ』『”恐”=抗いきれない強大な力に対する恐れ』というニュアンスを感じ、そしてその背景に、「武力によって天皇(公家)から権力を奪っていった」武士の台頭を見るのです。
さて、もうひとつの「宮崎という辺境(笑)に残る京文化の謎」ですが、これは県内各所に残る『平家の落人伝説』と無縁では無かろうと思います。
つまり落ち延びた平家の使っていた言葉が時間をかけて広まり、そして辺境であったが故に武士文化の影響を余り受けずに残ったという仮説です。
#ちなみに、「悔しい!」と言いたい時、宮崎では「しんきな-!」と言います。
(これも広辞苑によると「心気な/辛気な」と漢字が当てられ、ちゃんと「思うようにならず、くさくさすること。じれったくいらいらすること」という意味があるそうで、これも古語的表現のようです)
しかしこう考えていくと、言葉には歴史のロマンが詰まっていることが実感できますよね。
(2)「ひん」のバリエーションの不思議
「ひん曲がる」は標準語でも使いますが、この中の「ひん」という接頭語は、「曲がる」を強調する言葉として元々は「引く」から来たらしく、後に続く言葉によっては「ひっ」を使用する場合もあります。
この「ひん(ひっ)」は標準語では前述の「ひん曲がる」の他は「ひん剥く」「ひっ立てる」のように、元々の「引く」の色を残す言葉くらいしか見あたらないのですが、宮崎弁ではなぜかバリエーションが多いのです。
「ひんだれた」とは「すごく疲れた」の意ですし、「ひったまがった」は「ムチャクチャびっくりした」を意味します。
#ちなみに「ひだりい」は「おなかが空いた」です(笑)
また、眠くてうつらうつらすることを宮崎弁では「ねむりかぶる」と表現しますが、これの強調形も「ひんねむりかぶる」。
授業でうつらうつらしていて「なーにひんねむりかぶっちょっとか!」と怒られたのは懐かしい思い出です(笑)
しかしこのバリエーションの多さはなんなのでしょう。
これこそ「てげてげ」の面目躍如なのかもしれませんね。
(3)『無アクセント』の不思議
言語学的には『崩壊アクセント』(ずいぶんな表現です)とも言うようですが、宮崎弁では同音異義語をアクセントで区別しません。
つまり「箸」と「橋」や「雨」と「飴」、「柿」と「牡蛎」に「廃車」と「敗者」などを、アクセントを使い分けて表現しないのです。
これ、自分では全く意識していなかったのですが、以前妻から「あなたの言葉はヘン」と言われて初めて気づきました。
私(宮崎県民)に言わせれば、「そんなの前後の文脈でわかるからアクセントなんて不要」だと思うのですが、どうもこちらの方がマイノリティのようです(笑)
この崩壊アクセント、他にも福井・静岡・福岡・熊本などの一部地域で見られる(聞かれる)ようですが、ほぼ県全域に渡っているのは福島・栃木・茨城という隣接地域の他は宮崎だけというのも興味深いところです。
この原因ですが、『崩壊アクセント』という言葉が示すように、「異なるアクセントを持った人々(つまり異なる地域で暮らしていた人々)が同じ地域で暮らすようになったため、いつの間にかアクセントに無頓着になった」という説が有力だったようですが、近年では逆に「元々アクセントが無かった言葉が徐々にアクセントがつくようになった」という説も出てきているようです。
個人的には、「言葉の数が増えてきたことで、それらを区別するためにアクセントが生まれた」と考える方が自然な気がします。
しかし西日本に限定すれば、県内全域で無アクセントなのが宮崎弁だけというのも、これまた「てげてげ」な県民気質が表れているような気がするのは私だけでしょうか?(笑)
他にも宮崎弁には様々な面白いところがあるのですが、このくらいにしておきます。
でも、いかがでしたか?
方言に限らず、我々が何気なく使っている言葉について考えてみるのも、けっこう面白く、そしてためになると感じていただけたのであれば嬉しいです。
このブログでも何度となく言っているように、我々が言葉を使って思考し、そして言葉で様々な情報を他者に伝達している以上、その言葉を丁寧に扱う(丁寧な言葉を使うという意味ではなく、言葉の定義とその使い方に気をつける)ことが大切です。
また、言葉に限らず、我々が何気なく接しているモノゴトにこうして「そういえばなぜなのだろう」と疑問を持つこと、そして疑問を持つことを面白がることが、日々思考力を磨くことに直結すると私は思うのです。
さて、あなたのお国言葉の特徴は何ですか?
そしてなぜそうした特徴は生まれたのですか?
正解を本やネットで調べる前に、まずはご自身で考えてみませんか?
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