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ファカルティズ・コラム

2011年04月08日

それは自粛というより自重では?

季節外れの寒さもようやく峠を過ぎ、都内の桜もほぼ満開になってきました。
とはいえ、今年は例年のようなお花見の風景は見られないようです。
言わずもがな、震災後の自粛ムードからです。
お花見に限らず、様々なイベントが中止になっています。
数ヶ月後の東京湾花火大会も、早々と中止が発表されました。
確かに自粛は「無難な」選択です。
「えー、やらないのー?」という文句はでるでしょうが、少なくともこの選択で「不謹慎だ」と叩かれることはありません。
だから私も「自粛すること」が間違っているとは思いません。
しかし、納得できないのも確か。
この自粛ムードに異を唱える人の論拠の多くは『経済の視点』です。
「自粛で経済を停滞させることが、震災でダメージを負った日本経済にさらに追い打ちをかける」という論調です。
確かにそうした観点もありますが、今日は少し別な切り口で、この自粛ムードに私なりの意見を述べてみようと思います。

まず、ある意味自粛ムードを加速したと思われる石原都知事の発言を振り返ってみましょう。
「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」
「同胞の痛みを分かち合う」と言われれば、確かに花見なんかしているのは不謹慎だと感じるかもしれません。
しかし、本当に私たちは被災者の方々と痛みを分かち合うことができるのでしょうか。
私は「分かち合える痛みと分かち合えない痛み」があると思うのです。
分かち合える痛みとは物質的痛み、具体的にはお金やモノの痛みです。
だから義捐金を出して自分のフトコロをちょっと痛めたり、節電でちょっと不便になるのを我慢するわけです。
私たちがちょっと痛みを堪えることで、被災地に支援物資や電気が届くわけですから、これは確かに「痛みを分かち合った」と言えます。
しかし、怒りや悲しみといった精神的痛みは?
楽しみにしていたお花見を自粛して悲しんだら、被災者の悲しみはその分減りますか?
感情は分割できません。
そればかりか人数という点で考えれば、悲しみが増えるとすら言えます。
いや、震災の様々な報道で被災地以外でも多くの悲しむ人を生んでいる事実を考えれば、精神的痛みは既に日本国民、いや全世界の人が受けています。
この上、さらにその精神的痛みを増やそうとするのが、この自粛ムードなのです。
被災地で話を聞いてあげ、一緒に泣くことで被災者の心が少しだけ軽くなる、ということは確かにあるでしょう。
しかしこれは決して「精神的痛みを分かち合った(分割した)」のではありません。
定量化できる物質的痛みは分かち合えますが、定量化できない精神的痛みは分かち合おうとすること自体が不可能であり、それができていると思うことは驕り以外の何物でもないことを認識すべきです。
こういうとを言うと、また「冷たいヤツ」と言われそうですね(笑)
しかし、早々と自粛を決めた東京湾の花火大会にしても、私はそれが不謹慎だとはまったく思わないのです。
もちろん花火大会にはそれぞれの経緯があるわけですが、たとえば花火大会で有名な新潟県長岡市の『長岡まつり』は、そもそも太平洋戦争末期の長岡への大空襲の死者を悼み、戦争からの復興を祈念してはじめられました。
お祭には、こうした意味もあるのです。
また、お祭(様々なイベントも含む)によって「みんなが元気を出す」「コミュニティの一体感を醸成する」効果も忘れてはなりません。
ただ、だからと言って私は「全ての自粛はけしからん」と言いたいわけではありません。
時期的な部分に配慮し、「中止ではなく延期」は問題ないでしょう。
また、「自粛して浮いたお金を義捐金に」であれば、これこそ「物質的痛みを分かち合った」と言えるでしょう。
そしてもうひとつ、「自粛の名目で、本当はやる必要がないイベントを取りやめる」のはむしろ推奨します。まあ、少し卑怯な気もしますが。


いろいろ述べてきましたが、私は「右へ倣え」の自粛ムードには激しく違和感があります。
多くの自粛が「被災者のことを思って」というより、「自分たちが叩かれないため」に行われているような気がするからです。
『自粛』の類義語に『自重』があります。
辞書では『「自重」は、慎重に構えること、「自粛」は、さし控えること、遠慮することをいう』などと書かれていますが、ニュアンスとしては、『自粛は「他人のために取りやめること」であり、自重は「自分のために取りやめること」』という違いがあると考えます。
自粛決定の裏で、「これは自粛すべきだ」でなく、「ここは一応自重しておくか」という空気が支配していた…というのは私の憶測でしょうか。

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