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ファカルティズ・コラム

2011年12月22日

『常』を疑う

今年ももう残すところあとわずか。
本ブログもこれが2011年最後のエントリーです。
あなたにとって今年はどんな年でしたか?
「良い年のわけがないだろう」
という声が聞こえてきそうですね。
確かに今年は異常な年だったと言えるかもしれません。
東日本大震災とそれに端を発した原発事故。
天災としては台風による水害やタイの洪水、ニュージーランドの地震などもありました。
社会という視点では中東から拡大したジャスミン革命、そしてカダフィやビンラディン、金正日の死。
ジョブズの死も単なる企業経営者の死というより、ひとつの社会現象とすら言えます。
経済に目を転じれば円高、そしてユーロ危機。
TPP問題も国民的議論になりました。
なでしこJAPANやサッカーアジアカップ優勝などの明るいニュースもありましたが、やはり東日本大震災が私たちに与えた傷は大きく、全般的に暗い1年となってしまった感は否めません。


しかし、今年を「大変なことが多い異常な年だった」と言うのは簡単ですが、本当に今年は『異常な年』だったのでしょうか。
これまでの年は本当に平穏無事だったのでしょうか。
今回は2011年の終わりに対して、この『異常』ということ、もっと根本的には『常』ということについて考えてみたいと思います。

『異常』とは、読んで字のごとく「常ではないこと」を意味します。要するに「普通ではない/正常でない」状態ですね。「当たり前とは違うこと」と言ってもいいでしょう。
ですから『常』を辞書で調べると、当然のように「いつも同じ状態が続くこと/特別でないこと」と出てきます。
『常夏(とこなつ)』も「一年を通して常に夏のような陽気」を指す言葉ですね。
しかし、ちょっと考えてみてください。
『常』が「いつも」や「特別でない」を意味するとして、何をもって私たちは「いつも」や「特別でない(普通)」という判断をしているのでしょうか?
具体例で考えてみましょう。
「こんなの常識だよ」という言葉は、「自分が知っているのに他人が知らないのはおかしい」という意識から発せられます。
そして「あいつは異常だ」という言葉は、「自分を含めた大多数の人間とは(考え方や行動が)異なる」と確信しなければ出てきません。
そう、『常』かどうかは、私たちの主観と多数決(数の論理)によって判断されているのです。


主観は自身の経験から形成されます。だから同じモノゴトでも人によってとらえ方が異なる。これはそれこそ当たり前です。
そんな千差万別の主観によって私たちは『常』かどうかを判断している。しかし本当にそれで良いのでしょうか?
そして数の論理もいつも正しいとは限りません。多くの独裁者も多数決で選ばれたという事実を見てもそれは明らかです。


だから私は今年最後のメッセージとして「『常』を疑おう」と提案したいと思います。
具体的には、3通りの方法で『常』を疑いましょう。


1.狭い世界の『常』では?
先に述べたように、主観は経験によって形成されます。
しかしひとりの人間が経験できることは世の中のほんの一部の出来事だけ。
ある国や会社の常識が他の国や会社では非常識と見なされるように、自分が思う『常』は非常に小さい世界でしか通用しないことを自覚すべきです。
だから一度は自分にとっての『常』を広い視野で見つめ直してみましょう。


2.『常』と違うことのどこに問題が?
多数決でいつも正しい判断ができるとは限らない。「これが普通だよ」と言っても、その普通(『常』)が間違っているかもしれません。
また、たとえ普通と違っていても、それが「悪い」とは限りません。
そればかりか、大多数と「違う」ということはそれが「斬新」であったり、「他者とは異なる個性」である場合も多いはずです。
「普通そんなこと考えないよ」からイノベーションは起こり、「普通の会社とは違う」から差別化できるのです。
「違っていてどこが悪い」と開き直るのはどうかと思いますが、「『常』と異なることを考えよう」という姿勢は持ち続けたいものです。


3.それは本当に『常』なのか?
私たちが思い描く『常』は意外にいいかげんです。
自身の主観で「なんとなく」思い描いているだけでなく、周囲から与えられた『常』を吟味することなく受け入れています。
どういう状態が普通なのか、そして周りはこれが普通だと言うが本当にそうなのか、そこまで深く考えずに自分の周囲(あるいはマスメディア)が言うことを鵜呑みにしてしまうのです。
「平年に比べて~」と言っても、何年間の統計かによって『平年』は変わりますし、統計データから平均値を算出したのか、それとも最頻値を算出したのかによって『平年の値』は変わるのです。
何をもって『常』と言われているのか、たまにはそれを考えてみてください。


こうして様々な角度から『常』を疑ってみると、今年が本当に異常な年だったのか少し疑問に思えてきます。
世の中は絶えず動いています。
悲惨なことも起きれば、喜ばしい出来事もたくさん起こっています。
確かに1000年に1度の震災は今を生きる私たちにとっては『異常』かもしれませんが、地球の歴史、そして宇宙全体から見れば「どこかでいつも起きていること」、つまり『常』です。
そんな宇宙的な話だけでなく、たとえば「昔は自分の子供を虐待するなんてありえなかった。今は異常だ」という主張なども、「昔は情報網が発達していなかったから発見や報道が少なかっただけでは?」と考えれば、決して今が異常とは言えないはずです。
「異常だ異常だ」と騒ぐことで何かが良い方向に変わるならまだしも、単に騒ぐことに、そしてそれによって心を痛めたり不安になることに何の意味があるのでしょう。
自分の頭でちゃんと考え、自分なりに納得のいく答を見つけること。
そして考えてもしょうがないことは考えないこと。
これこそ「心安らかに」過ごすために必要なことだと思うのです。
来年こそ、いや来年も良い年にしたいですね。

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