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「ねばならない」は「おもしろい」に如かず

2014年04月08日

藤本 康一郎

 論語の中に「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」という一節があります。「これ」は学問や人生観を指すようですが、本稿の例でいえば、「ロジカル・シンキングを知る人はこれを好きな人に及ばず、ロジカル・シンキングを好きな人はこれを楽しむ人に及ばない」となります。わたしは「ねばならない」で始めたことは「知る」を超えることはないと思いますし、「おもしろがる」というのは「好む」というより、むしろ「楽しむ」に近い概念だと思っています。
 論語が指摘するのは、「ロジカル・シンキングを学ばねばならない」という動機で学習を始めても、ロジカル・シンキングをおもしろがってやっている人には到底敵わないということであり、そうであるならば、自分自身がおもしろいと思う別の何かを学習する方が良い、とわたしは解釈しています。


ただし余談ですが、仕事の現場では論理的思考力も「ある程度」は必要ですので、この点に苦手意識がある場合は学習の必要があると思います。その際も「ロジカル・シンキングを学ぶことで、自身の考えをより多くの人に理解してもらえるようになれば『おもしろい』な」と考えたり、「ロジカル・シンキングを学べば、以前は理解できなかった本の内容が分かって『おもしろい』な」と学習の動機を捉えなおせば、「学習せねばならない」から学習するよりも理解が深まるのではないでしょうか。

基準は「おもしろい」かどうか

 何かの講座を受講したり本を選んだりという場合、わたしはその講座なり本が「おもしろそう」かどうかを判断基準にしています。「なにを当たり前のことを」と思う方もいらっしゃると思いますが、次のような経験をされた方も多いのではないでしょうか。
(例1)従来のように経験・勘・度胸(俗に言う「KKD」)に頼った経営では環境変化の激しい時代には通用しない。だからロジカル・シンキングを学ば「ねばならない」。
(例2)人口減少が確実な日本のみを市場としては経営が成り立たず、グローバル化は時代の必然である。だから英語を学ば「ねばならない」。
 たしかにこの例に出てくる「ねばならない」は正論だと思いますが、正論だからといって、それを実践できるかどうかは別です。わたし自身に関していえば、「○○を学ばねばならない」という理由で始めたことが1ヶ月と続いたためしがありません。その度に「学ばねばならないことを学べないとは、なんてダメな人間なんだ」と思ったこともありましたが、では、それを学ばなかったから何か不都合が生じたかというと、そんなことはありませんでした。不都合がないなら「おもしろい」講座を受講したり、「おもしろい」本を読む方がいいなと思い、それを実践する毎日です。

「セレンディピティ」をご存知でしょうか

 「セレンディピティ(serendipity)」とは、「デジタル大辞泉」によると「求めずして思わぬ発見をする能力。思いがけないものの発見。運よく発見したもの。偶然の発見。」とあります。好きな作家の新刊が発売されたので本屋に赴いたものの、その本は売切れていたので入手できなかったが、当初は存在すら知らなかったおもしろい本を発見した、という場面が「セレンディピティ」に該当しそうです。「棚からボタ餅」に似ている気がするのですが、こちらはあくまで「偶然」の問題であるのに対して、「セレンディピティ」は「(発見する)能力」の問題である点で異なります。
 さて、わざわざ「セレンディピティ」などという聞きなれない単語を出したのには訳があります。かつて慶應MCCで開講された阿刀田高さんによる「古事記」の講座を受講した際のお話です。イザナギとイザナミの間に生まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神のうち、アマテラスとスサノオに関する物語は古事記の中に数多く登場します。代表的なのは「天の岩戸」の物語で、みなさんもよくご存知のことと思います。しかし、三神の真ん中に位置するツクヨミに関する記述は、古事記にほとんど存在しません。同じことがニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれたホセリ、ホスセリ、ホオリにも該当し、ホセリとホオリがそれぞれ海幸彦、山幸彦として古事記に登場するのに対して、真ん中のホスセリについてはほとんど言及されていません。
 同じ現象が複数回登場することに「おもしろさ」を感じたわたしは、この点についてちょっと調べてみたところ、心理学者の河合隼雄が、日本神話は真ん中が空っぽの「中空構造」を持っていることを指摘しており、中空構造において、重要な二神は対立や争いを繰り広げるが、スサノオは対立後、アマテラスと誓約することになるし、海幸彦と山幸彦も相手を最後まで滅ぼすことはせず、二者が対立しても完全な善や悪が存在しないことを指摘していることを「発見」しました。
 「真ん中が空っぽの『中空構造』とはおもしろい」と思い、この構造が当てはまるものはないかと考えたところ、どうも日本の会社に当てはまる場合が多いような気がします。会長や社長という会社の真ん中に位置する存在が、とりたてて重要な機能を果たしてなさそうな会社がたくさんあるように思う(はなはだ失礼でスイマセン)のですが、これは日本独自の「中空構造」か、などと妙に感心しました。わたしとしてはこれも一種の「発見」だと思っています。
 学者の学説を見つけたり、勝手に妄想を膨らませただけのことを「発見」というのも大げさかもしれませんが、仮にわたしが「古事記」の講座を、日本人の教養として古事記を学ば「ねばならない」という動機で受講していたら、「アマテラスとスサノオは古事記の常連だから覚えておかねばならないが、ツクヨミは覚えなくてもいいな」と考えるだけで、上記の発見はなかったと思います。この講座を受講した理由は、高校生の時からファンだった作家(阿刀田高)が担当する講座なら、おもしろい講座に違いないという期待であり、結果として自分なりにおもしろい発見をすることができました。「おもしろい」を軸とした学びは「セレンディピティ」と相性が良いように感じます。

おわりに

 今回は「大人の学び」に関する私論ということでしたので、「ねばならない」から「おもしろい」への動機の転換について記載しましたが、「子供の学び」の場合にそのまま適用できないことは明らかでしょう。子供に「『おもしろい』と思うことを好きなだけやりなさい」と言ったら、一日中ゲームをしていると思います(わたしにはそういう休日がたまにありますが、大人だから大丈夫だと思っています(笑))
 ただし、「おもしろがる」というのはどちらかというと「子供」が得意なことであり、「やらねばならない」から実行するというのは「大人」の領域ではないでしょうか(会社の仕事がいい例です)。そう考えると、今回の「おもしろい」を軸とした学びの捉えなおしとは、子供の頃に感じた「ワクワクするようなおもしろさの感覚」を学びの場面で思い出しましょう、ということになります。
追伸
 本稿は予定通りですと4月8日(火)に掲載されるようですが、その週末からコラムニスト小田嶋隆さんの「文章表現ワークショップ」の講座が慶應MCCで開講されます。わたしは小田嶋さんのファンなので、この講座を「おもしろそうだ」と思い受講しますが、「文章表現ワークショップ」だからといって、「表現力を磨かねばならない」とは微塵も思っていません。(笑)こうした講座を設置してくださった慶應MCC様に感謝感激です。また、駄文を最後まで読んでくださったみなさまにもお礼申し上げます。どこまでお伝えできたか分かりませんが、おもしろがって文章を作成したことは間違いありません。
 

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