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夕学レポート

2008年06月10日

人の数だけ「ひとり」がある 山折哲雄さん

意外なことに、山折先生の講演はオリンピックの話題から始まりました。
「オリンピックというのは、スポーツの祭典であると同時に、世界中の人々の精神世界がぶつかり合う場でもある。そこでは、必然として「日本人とは何か」という想念が浮かび上がってくる」
山折哲雄さんは、いかにも宗教家らしく、オリンピックをエンタテイメントとして楽しむだけでなく、日本人のこころが凝縮して表出される「日本人精神発露の場」としてご覧になっているようです。
トリノ冬期五輪の期間中、過去の日本選手の活躍の軌跡を振り返る映像が放映されたことがあったそうです。そこで流れた前畑秀子さん(ロサンゼルス五輪銀メダル、ベルリン五輪金メダルの水泳選手)のインタビューに、山折先生は注目しました。
出発にあたって送り出してくれた「母の言葉」を胸に刻み、「死ぬ覚悟」を秘めてスタート台に立ち、スタートの号砲に「神様」と叫んでプールに飛び込んだと前畑さんは振り返ったそうです。
山折先生は、このインタビューで語られた「母の言葉、死、神様」の三つのキーワードに着目し、恐らくは、当時の全ての日本人の精神構造の中に共有化された意識と価値観を見いだします。だからこそ、アナウンサーの「前畑ガンバレ!」の絶叫が、いまだに心に響くのだと。


現代の選手が口にするのは「自分らしく、楽しく、笑顔で」という言葉。「母、死、神様」とはおよそかけ離れたように見えるが、精神の価値観が70年程度で変質するとは思えない。実は彼らも、こころの奥底で、無意識のうちの「母、死、神様」と叫んでいるのではないか。だとすれば、彼らにその言葉を口にすることを躊躇させたのは何なのか。それをしっかりと見定めなければならない.... 山折先生は、そう言います。
同じように、我々が失いつつある「日本らしさ」のひとつに「寛容の精神」があると山折先生は感じています。
凶悪犯罪の報道に対して沸き起こる厳罰主義、極刑主義の世論にそれを感じるそうです。
名作『恩讐の彼方に』で菊池寛が着目したのは、親の仇でさえ、理由によっては許すことができるという日本人の精神性でした。
山折先生は、更に思索を広げて、菊池寛が『恩讐の彼方に』とほぼ同時期に書いた『ある抗議書』に思いを寄せていきます。
こちらには、姉夫婦を無惨に殺された主人公が、牧師の教誨を受けて安らかな心で極刑を受け止める犯人に対する押さえきれない怨嗟の声が綴られています。「寛容の精神」とは対極にある心境です。
「肉親を殺される」という、決して合理では解決できない大きな問題に対して、菊池寛は、ほぼ同時期に、まったく異なるスタンスの二作品を世に問うていたことになります。しかも、『恩讐の彼方に』では仏教を、『ある抗議書』にはキリスト教を絡ませながら、寛容と怨嗟を対峙させています。
この複眼思考、多義性こそが、「日本人のこころ」ではなかったか。それを我々は忘れてはいないだろうか。
山折先生は問い掛けます。
現代社会に蔓延している「漠然とした殺意」の存在についても、山折先生は気になるところだそうです。
殺意が外に向かえば、秋葉原のような悲惨な事件を引き起こし、自分に向かえば、ネット自殺の急増につながり、抱え込めなくなると“うつ”として表出してしまいます。
「漠然とした殺意」を増長する背景問題は二つあると山折先生は言います。
ひとつは、「人生80年」の人生モデルに対応する、こころの知恵・手当てを見つけられないでいることです。
「人生50年」の人生モデルでは、生と死が直結していました。ゆえに「死生観」が発達しました。そこの宗教の意義もありました。
生と死の間に「老、病」のふたつが割り込んできた今、我々はこれに対応する、こころの手当てを有していないことが不安を増長しています。
もうひとつは、人間関係の関係軸が変容したことです。
親子関係、師弟関係、友人関係。それぞれに独立していた関係軸が、いつのまにやら似通ってしまい、際がなくなってしまったことが不安につながっているとも言えます。
現代社会で盛んに使われるようなった「個」「個の自律」という言葉にも山折先生は危うさを感じているそうです。西洋近代社会が作り出した「個人」という概念を、深く考えることなくそのままの形で輸入してしまっているのではないかという問題意識です。
「個人」という概念を、日本社会の文脈の中で位置づけするという作業をするうえで、山折先生は、「ひとり」という大和ことばを教えてくれました。
西洋の「個人」に相当する、大和ことばの「ひとり」には、ひとつの定義にくくれない多義性があります。
例えば、柿本人麻呂の「ひとり」
「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」この歌中にある「ひとり」には、たとえ一人ではあっても、心の中で待ち人とつながっていること信じる歌人の成熟した精神を感じます。
例えば、親鸞の「ひとり」
歎異抄に綴られた親鸞の言葉には、厳しい修業を通じて、阿弥陀如来と直接つながろうと志した親鸞の強い決意が垣間見えます。西洋のプロテスタンティズムに通じる、強い「個」がそこにはあります。
例えば、放浪の俳人 尾崎放哉の「ひとり」
「咳をしてもひとり」
肺を病み、幾ばくもない生命を噛みしめながら、それでも全宇宙と対峙し、自然の中に包み込まれようとする現実を、ひとりで受け止めようとする潔さがあります。
例えば、高浜虚子の「ひとり」
「虚子ひとり銀河と共に西へ行く」
俳句の道を究めることで、人間とは何か、生きるとか何かを考え続け、ついには自己の内面世界に広がる広大な宇宙の存在に気づいた虚子。
西行、芭蕉、良寛にも共通する、聖(信仰)と俗(芸術)の人生の二股道をあえて同時に歩もうとする、生き方のダイナミズムがそこにあります。
人の数だけ「ひとり」がある。
「ひとり」という大和ことばに、多義性を込めて紡ぎ繋いできた日本人の営み。
それを噛みしめないで「個」を語ることの無意味さを山折先生は指摘してくれました。
「個の自律」を口にしながら、自律するためにどうすればよいか、その答えを他者に求めようとする自己矛盾に気づいていない私達。
山折先生が繰り出す、禅問答のような問題提起的お話を聞いて、まずは、私にとっての「ひとり」を見つけることからはじようと思った夜でした。

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